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母が乳幼児の世話をする
その時には当然肌に触れる
授乳、お風呂、着替え、おむつを替える、抱っこ、おんぶなどなど
母の手(素肌)がその中心となる
それをマーキングという
母のマーキングは心地良いはずである(必ずしもそうと言い切れないこともある)
その時の心地良さ=快が、後にその快を反復することを求める
母が触れることが快であるとマーキングされたなら
その快を何度でもあらゆる場面で再現したいと人は求めるようだ
つまり
触れることが快だとマーキングされることによって、皮膚感覚が発達するとも言える
逆に言えば
マーキングが何らかの事情でない場合、もしくは希薄な場合
あるいは、極端に不快だった場合
皮膚感覚が鈍麻する可能性が大きい
暑さ、寒さなどの感覚が感じられない
あるいは、人に触れられることが
「くすぐったい」「嫌」「気持ち悪い」「痛い」
と感じる傾向があるようだ
中には
まったく感じないという人もいる
人の様子を見ても、「暑そうだ」とか「寒そうだ」とか
「疲れているようだ」「しんどそうだ」なども読み取れないという
自分が体験している=マーキングされているから
人を見ても想像できる
痛さも暑さ寒さも体の不調も想像できる
それがないと見ても想像できないし
自分も鈍麻しているから怪我をしても痛さもさほど感じないらしい
ファッション感覚でタトゥーが流行したが
これも皮膚感覚が鈍麻している=マーキングがないことの証だと言えるだろう
蛇足になるが(豊富なデータがあるわけではないが)
産道の圧迫感を体験していなかったり、触れてもらう体験が希薄な場合、
その圧迫感を強く感じるようなこと
例えば、スキューバダイビングやスカイダイビングなどを好む
そっと触れるよりも、ぎゅっと強く抱き締められたいと思う
また、大人の性行為においてもこういった傾向が強くなることが予測できる
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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出産と共に「母」という役目が一つ加えられる
「母になる」とはどういうことか?
それは
ある一定の期間、自分の時間が極度に制限されること
自分の主導権を放棄する覚悟が必要とされること
これらの観点から考えてみることにしよう
乳児は他者の世話を受けなければ片時も生きられない存在である
ゆえに、授乳に始まり、お風呂や着替えなど24時間体制の世話を求めている
お腹がすいた、眠い、オムツが濡れたなど
昼夜かまわず、ひたすら要求し続ける
母の側の都合など一切おかまいなしとなる
不快が快に変わるまで要求し続けることになる
昼夜逆転の睡眠や夜泣きなど、母にとっては辛い要求となることが多い
それでも世話し続けなければならない
「こんなに一所懸命してるのに、赤ちゃんが可愛いなんて、そんなことは嘘だ!」
と叫びたくなる状況となる
何一つ、母の思う通りにはならない
やっとの思いで寝させた頃にはもうクタクタ
ホッとする間もなく主婦の仕事が待っている
自分の時間など、どこにもない
こんなはずじゃなかった
周りの協力も得られないとなると
育児ノイローゼや虐待へとひた走る可能性が出てくる
一方、夜泣きも昼夜逆転もさほどなく、育てやすい赤ちゃんもいる
なぜ?
要因はさまざまある
とまれ、母になるとは
「ある一定の期間、24時間体制で主導権を赤ちゃんに譲り渡す覚悟を持つこと」
だと言える
この覚悟を持った母への唯一のごほうびは「赤ちゃんの笑顔」である
シニフィアン研究所はこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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文字や言葉は、単に線や音の集合であり、
その形や音の種類によって笑ったり、怒ったり、泣いたりする。
「素敵ですね」と言われれば、その人の顔はパッと明るく笑顔となるだろう。
反対に
「あんたなんか大嫌いよ」と言われたなら、きっと怒ったり、悲しい表情になることだろう。
しかし、なぜ笑ったり、喜んだり、怒ったり、泣いたりするのだろう?
音の、文字の集合なのに。
それは、その音や文字の集合に、それぞれ共通の意味を見出しているからだ。
そしてその意味にそれぞれ感情や行動として反応していることによる。
つまり、その共通の意味を共有しない所では、
それらは単なる線や音の集積と化す。
たとえば、日本人には普段馴染みがないであろうサンスクリット文字やアラビア文字
また、速記文字や方言などもその範疇に入るだろう。
それらは、その意味する内容が理解できないからだ。
それゆえ、意味を共有しない文字や音にはほどんど風景の一部のように通り過ぎるだろう。
人は意味の中に感情や行動を規定されていると言える。
言い換えれば
人は線や音の集合の中に、自らの意味を文字や声として切り出しているということになる。
また、
自分が自由に使っているつもりの言語は実は誕生以来ひたすら全面的に受け入れてきたものである。
つまり、言語は誕生以前からある体系であり、人はこの中に参入するしかない存在であった。
語られ、それを取り込むことでしか他者の中に参加できなかった。
他者なる言語体系とある種の契約をしたようなものである。
そして、今もその受身的であることに変わりはない。
これをラカンは「言語に隷属している」と書いている。
シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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人は寄る辺なき存在として生まれるがゆえに、世話してくれる存在を必要とする。
「世話」とは、求めている時に(敏速に)、求めていることだけを(的確に)、行動で応えること。
別名「母性行動」と呼ぶ。
母性行動の基本は主に授乳を通した「まなざし」と「スキンシップ(抱っこ)」から始まる。
「お母さん、私を見て!」というメッセージを送り続けている。
まだ、言葉を理解しない時から。(実は正確な表現ではないが、今はこのままにしておく)
この母のまなざしとスキンシップが母という存在に「愛着」というものを感じる第一歩となる。
ゆえに、
まなざしとスキンシップ(抱っこ)は愛着の微分係数であると言う。
また、この愛着が「欲望」を生み出す源ともなる。
母の若くて柔らかい肌の温もり、おっぱいの感触、匂い、
これらが基本となって
求めても手の届かない、黄金比のかなたにある「対象a」を永遠に求め続ける旅路を行く旅人となる。
つまり
「これだ!」と思って掴むが、「やっぱり違う・・・」と手放し
「どこかにあるはずだ」とまた掴んでは放す。
その時々によって、掴む対象は変化するだろう。
しかし、そこにはある共通項が見出せる。
それをフロイトは「一の線」と言った。
まさしく、人は母の代理物を求め続けることに自らの時を費やしていると言えるのではないだろうか?
それらの基本となる「母の世話」=母が常に側にいることが非常に重要な要素となる。
少なくとも4歳までは、片時も子どもの側を離れることなく母性行動をすること。
これが求められる。
では、最初の「愛着」がなかったら、母の「まなざし」と「スキンシップ(抱っこ)」がなかったらどうなるか?
想像してみてほしいと思う。
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