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【2024/04/25 08:52 】 |
382)早期に人生の決断をしている

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「早期に人生の決断をしている について書きます。

人は成長の過程で、その都度その人なりの決断をして生きています。
しかしその決断は、幼少期にしたそれの反復であり、そのプログラムに気づかない限り変更されることはない。
つまり、あるエピソードを通して決断したプログラムに従っていく という一例を紹介したいと思います。

ある人が「私は貧乏でお金の苦労をしてきた。なのになぜか、お金を欲望しなかった。」と語りました。
通常、お金で苦労したら、お金が欲しい、お金持ちになりたいと思うのは納得できることです。
ところが、その人はそう思わなかったというのです。
本人も不思議だと思っていたそうです。

ある時の分析場面で、その理由が明らかとなりました。
というのは、ある幼少期のエピソードを思い出したからです。
内容はさておき、その時その人が思ったことは次のことでした。

≪お金を貯めたら、必ずなくなる。≫

当然、このエピソードはその時を限りにすっかり忘れ去られていました。
数十年を経て、ある時の分析の語らいの場で思い出されたのです。
このことを語った瞬間、その人は叫びました。
「あの時に私はお金を貯めることを止めたんだ。」
そしてその人は理解しました。
なぜ自分がお金に困りながらも決して欲望もせず、貯めようともしなかったかということを。
まさしく長年の謎が解けたのです。

分析家に語るという行為の中で、自らの謎に自らの語らいで気づいていく。
もっというなら、自らの謎を自らが解いたのです。
同時にその人は、人生の早期にあるエピソードをきっかけに、自分の人生を決定してしまうことがあることを教えてくれました。
 

語ることは自らの無意識に気付く有効な手段の一つです。
自分を知ることを厭わない方、」興味を持っている方は語ってみませんか?
長年の自分の謎が解けるかもしれません。

シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/ を参照ください。
Twitter https://twitter.com/sindoumaki  でもつぶやいています。 

 

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【2014/06/10 16:42 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
360)だましのテクニック―言語の威力

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

 今日は、「だましのテクニック―言語の威力」 ついて考えてみます。

オレオレ詐欺、振り込め詐欺など、詐欺被害が横行している昨今です。
どうして人はだまされるのでしょうか?
それは言語の威力(言語に隷属しているから)だということを考えてみたいと思います。

例えば、「有名ブランドの紙袋」の話です。
ある女性に聞いた話です。
毎日お弁当を、高級ブランドの紙袋に入れて通勤しているのだそうです。
彼女曰く、「だって、中に高級ブランド商品が入っているように見えるでしょう。もしくは、そこでお買い物をしてる人だって思うかもしれないでしょう。」(ちなみに、それらの紙袋がネットオークションでも売買されているそうです)

彼女は何を語っているのでしょうか。
これは、紙袋に書いてある文字やロゴマークから連想するものと、実際の中身が違っています。
そして、そのことで中身に関係なく、紙袋が高級ブランドの商品を連想させるというのです。
もちろん、すべての人がそのように考えるとは限りません。
が、少なくとも、その高級ブランドに関心のある人は何らかの思いを持つことでしょう。
彼女は意図して持っていたようですが、意図しなかったとしても同じように思う人が少なからずいるでしょう。
つまり、意図するしないに関わらず、紙袋の文字やロゴマークなどがその中身を指し示す機能を持っているということです。

もう一例。
スーパー銭湯が盛況だそうですが、その入り口には「のれん」が掛かっています。
そして、のれんには「男湯」「女湯」と書かれているのを知っています。
あるスーパー銭湯では、日時によって交代するのだそうです。
その時、どうするのかというと、「のれんを交換する」のです。
つまり、それまで「男湯」だった湯舟が、その瞬間に「女湯」に変わるのです。
当然、私たちは「のれんの言語」に従って入って行きます。
ここで、万が一間違っていたらどうなるかは、想像に難くないでしょう。

これこそが、まさしく「だまされる」可能性が口を開けて待ち受けている場(穴)、時ではないでしょうか。

私たちは、その中身が何であるかよりも、何と書いてあるか、何のロゴマークなのかでまず中身を想像し、判断する傾向にあるのです。
つまり、言語に従って想像することになります。
というよりも、想像させられているという方がいいかもしれません。
そして、その自らの想像を吟味せずに信じるかどうかが、だましの穴に落ちるか落ちないかの瀬戸際です。

詐欺師と呼ばれる人たちは、これらのことをよく理解していて利用するのです。
そして、言葉巧みに人をだますのです。
これらはすべて、私たちが日々言語に従って生きているからです。
言語や記号は、それぞれある意味を想像させ、指し示す機能を持っています。
だからこそ、我々は互いの意思疎通を図れるのです。
また逆に、言語に振り回され、だまされ、喜怒哀楽にもてあそばれることにもなる。

「言霊」「人を生かすも殺すも言葉一つ」「言葉が身に染みる」「言葉に感動した」「言葉が胸にぐさりと突き刺さる」「ペンの力」etc

私たちは言語によって、生かされもすれば、殺されたりもする。
このように言語は、人の生死に関わる威力をも持っているのです。
だまされる可能性の穴はすべての人に開いています。
それは人は言語に従って生きているからです。
これらを、ジャック・ラカンは「人は言語に隷属している」と言いました。

日常生活の中で、「言霊」とも言われる言語を、人を生かし、自分を生かすために使いたいですね。

シニフィアン研究所のHPもどうぞhttp://signifiant-lab.com/

 

 

【2013/12/22 18:33 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
352)一家団欒(だんらん)

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題だと実感することでしょう。

 今日は、「一家団欒」 について考えてみます。

「一家団欒(いっかだんらん)」=一家族が集まってなごみ楽しむこと
辞書にはこのように表記されています。
核家族化と呼ばれて久しいですが、どれだけの家族がこの団欒を時をもっているでしょうか。
その是非はとまれ、
ここでは、食事を中心に一家団欒がもたらすものについて考えてみます。

そしてそれは、「共食」「共感」「共生」であり、それが安心・安全の基であり、それが心身共に安らぎをもたらすと言いたいと思います。

「共食」とは、ここでは文字通り、一つの食卓につき共に食事をすることを指します。
食卓に家族が一堂に会するということです。
それは、お互いが時間と空間を同じくすること(時空の共有)を意味します。
「共感」とは、母の調理した料理を口にし、それぞれの味わいと感想を共有すること(味の共有)をいいます。
「共生」とは、共食と共感により、共に生きていることが実感できることを指します。

改めていうまでもなく、「食」は人が生きていく上でその基本となるものです。
必要な栄養を取ることだけが目的ではなく、「食」を通して様々なものを取り入れることでしょう。
素材、調理方法、食器、雰囲気などなど、数えきれないくらいの付加されるものがあります。
それらすべてを含めての食事の基本が、まずは家庭の食卓であり、
そしてその基本となるものが「共食」「共感」「共生」だといいたいのです。

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子どもの様々な問題と向き合っていると、ある共通点が見えてきました。
すべてとは言いませんが、かなりの子どもが個食(孤食)の傾向にあるのです。
ある小学生に聞くと
「別に普通、1人でテレビ見たりゲームをしながらの方が楽しいし、、、」と言いました。
ある年齢以上になると、家族が一堂に会することは難しくなることでしょう。
だとしたら、それまでの時期に「共食」の楽しさを可能な限り体験させてあげたいものです。
共に食べ、共に語り、共に味わうことの楽しさを知る。
それが「我が家の味」であり、「おふくろの味」と呼ばれてきたものではないでしょうか。
その上にさまざまな味の体験を重ねていく。
家庭(母)の味を比較参照として「美味しい」「イマイチ」「口に合わない」などと語るのだと思うのです。
家庭の味を知らないとは、まさしくこの母の味を知らない、一家団欒の時と空間を味わったこと、味の基本となるものがない、ということではないでしょうか。

………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何よりも人がホッと安らぎを感じるのは、昔なつかしい味に出会った時では?
「何故かなつかしい気がする」
「なぜかホッとする」
「何故か分からないけど好き」
と表現する時は、どこかで「我が家の味」、それはまた家族(母)との思い出に繋がっている、そのように思うのです。

「同じ釜の飯を食った仲だ」
「同じ鍋をつついた」
「一つのパンを分け合った」etc

これらの体験が心身の栄養素となり、成長をよりいっそう促す。
心身の健康はまず食卓から、一家団欒の時空から始まると言いたいのです。

多忙な時を生きている私たちですが、日に一度、週に一度、月に一度でも「一家団欒」の時間と空間を可能な限り持ちたいと思っていませんか。

今日は「一家団欒」について書いてみました。
ひょっとしたら死語となりつつある、あるいはもうすでになっているかもしれません。
それでもやはり古くて新しい言葉だと思います。

シニフィアン研究所の迎意 愛からのメッセージです。
HPも参照ください。http://signifiant-lab.com/

★個食とは、 (「孤食」とも書く)家庭で、家族が団欒(だんらん)することなく、一人で食事をすること。また、一人一人がばらばらの時間に食事をとること。
・個食とは、家族が集まっていても各人個別の食事を取ること。

 

【2013/10/15 11:26 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
340)対話と伝達

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。

 

今日は、「対話と伝達」について書きます。
月刊精神分析5月号が届きましたので、その紹介と共に、≪対話と伝達≫をテーマに考えてみたいと思います。

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「探偵ナイトスクープ」
2013年4月5日放送、探偵は竹山隆範。奈良県在住の18歳の少年からの依頼。依頼者は、物心付いた頃から両親の会話を聞いたことがなく、母親が話しかけても父親が無視してしまうのだと言う。子供に対しては普通に話しかけてくれるのに、なぜ母親とは口をきこうとしないのか、理由を解明してほしいという内容。依頼者の姉からも話を聞いた所、実に23年間会話をしていないことが判明。(月刊精神分析ー特集探偵ナイトスクープより引用 http://agency-inc.com/knight-scoop/

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上記の月刊精神分析の記事を参照しながら、
家族間での≪対話と伝達≫をテーマに考えてみましょう。

辞書では、「対話」とは、向かい合って話し合うこと。
「伝達」とは、命令・意思・情報などを口頭または書類で相手に伝えること。とあります。

これら二つの違いをみてみます。
一番の違いは『相手の現前を必要とするか、しないか』ではないでしょうか。
もちろん対話は必須(あるいは前提)で、伝達は必ずしも必須ではありません。
対話を中心に考えてみましょう。
1.お互いに向かい合うこと。
2.そのためには、傍(同じ空間)に居ることが前提。
3.時間的に、精神的に、『ゆとり』が必須。
これらのことが揃って初めて≪対話≫をする環境が整ったといえるのではないでしょうか。

自分の家族間はどうだろうか?と問いかけてみてください。
どのような光景が浮かんできますか。
家族間で会話はあるよという方は、
それは『対話』と『伝達』との観点からいうとどちらでしょうか。
「対話(伝達)に近い」
「伝達(対話)の方が多い」
「どちらもない」etc

この観点から特に注目したいのが、女性も社会参入しやすい環境を推進するために、
「0歳児保育」や「待機児童ゼロ」を目指して社会が動きを活発化していることです。
横浜市がわずか数年で、それを達成したとのニュースが先日発表されました。
(日本経済新聞参照http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2000Z_Q3A520C1CC0000/

社会状況から考えると、様々な考えや意見があることでしょう。
ただ、『対話』という観点からみた場合、
これらの状況下で、
どれだけ向かい合う時間が持てているでしょうか。
どれだけ傍に居る時間があるでしょう。
どれだけゆとりを持てるでしょうか。

なぜ『対話』を中心に考えているのかというと、
対話は家族間の絆を深め、強くすると考えるからです。
このことについては、後の機会に譲りたいと思いますが、
ただ言えることは、特に子どもの問題は家族の問題に通じているということです。
また子どもに限らず、多くの方の悩みや問題を聴いていると、家族の姿が浮かんできます。
そして、家族間の繋がり(絆)の希薄さや無さ、
その一因としての『対話のなさ』を痛感しているからです。

今回は「月刊精神分析」の記事に関連して≪対話と伝達≫について書いてみました。
家族間の会話はありますか?
それは対話ですか、伝達ですか?
この機会に少し考えてみませんか?

シニフィアン研究所のHPも参照ください。
勉強会、教室、講座もしています。http://signifiant-lab.com/
6月4日~6日まで、関西へ出張します。
詳しくはスケジュールを参照ください。http://signifiant-lab.com/#161

【2013/05/29 17:23 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
329)母子分離=母が言語になるとき

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。

今日は、「母子分離=母が言語になるとき」について書きたいと思います

母はすべての人にとって、最初の愛着の対象だといわれています。
それは、自分という存在をこの世に生み出してくれたその人だからです。
そして、乳幼児の時代は、
誰かに適切な世話をしてもらわないと、片時も生きられない存在だからです。
だからこそ、生み出してくれたその人に常に側に居て欲しい、
自分だけの人であってほしい、
独り占めしたいと切望するのでしょう。

しかし、社会参入することは、
その愛着の対象との別れを受け入れることでもあります。
心身ともに自律するためには、必須のことです。
つまり、子ども時代を終わらせ、大人の世界へと参加することを期待されています。
そのことを『母子分離』と呼びます。
これは、精神的、空間的、金銭的に自律することを指します。
現在、その猶予期間は約20年と言えるでしょう。

身体的に分離してから20年をかけて、精神的に分離することを求められているということです。
精神的に母子分離することを考えたいと思います。
様々な切り口がありますが、
ここでは、母が言語になることだと言いたいと思います。

どういうことかというと、
生身の自らの母が、だれもが自由に使う『母』という言語になることを意味します。
つまり
・思う通りにさせてくれなかった母
・言うことを聞いてくれなかった母
・放任の母
・支配した母
・頑固な母
・わがままな母
・他の兄弟姉妹に獲られた母
・溺愛した母
・いつも不在だった母
などなどの母から
・『ただの母』
・『どこにでもいるボケ老人』
・『ただの人』になることです。

ある人が淡々と言い放ちました。
<私を支配し続けた母でしたが、今ではどこにでも居るボケ老人になりました>と。
そのように語るまで15年近くの時間を必要としたとも語りました。
何の感情も交えず、湧き上がることもなく、
やっと<ただの人になりました>と言えるようになったと語った人もいます。

彼らはそれまで、多くの不平不満を語り続けました。
また、不平不満すら語るまでに相当な時間を要した人もいます。
ただ、共通していることは
長く抱えてきた母への不平不満を語り続けた結果、
『母』という誰でも使うただの言語となったということです。
<母を尊敬している>と語る人もいます。
それでも、そうではない部分を語り始めた時、何かが変わったともいいました。
とまれ、
「母」は誰にとっても一度は必ず意識して語る必要のある存在なのです。
それが、色々な意味において《偉大な存在》と言われるゆえんなのでしょう。


あなたの「母」はあなたにとってどのような人でしょうか?
母を語るとき、どのような感情が伴うでしょうか?
あるいは、何らの感情も湧き上がってこないでしょうか?
母なくしてこの世に生み出されることはなかった。
これはまぎれもない事実です。
だからこそ「母」は母港であり、故郷であり、世界でただ一人の特別な人。

母について語ってみませんか。
自分にとって母とはどのような人なのか知りたくなったら
精神分析は役にたつでしょう。
興味を持たれた方はこちらを参照ください。
「自己を知る」講座もあります。
シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/

月刊精神分析2013年2月号『グリム童話・白雪姫』でも取り上げられています。
詳しくはこちらを参照ください。http://agency-inc.com/grimm/

【2013/03/12 14:22 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
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