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アリバイ証明とは、そこには居なかったという不在証明でもある。
例えば
TVのサスペンスドラマなどで刑事が
「あなたは○月○日○時頃、どこにいらっしゃいましたか?」と質問する場面がある。
その時「△△に居ました」と言うと
「△△以外にはいなかった」という不在証明でもある。
これと同じように、語る=言語化することは
もう自分はそこには居ないという不在証明だとも言える。
喜びや驚き、また辛さ、悲しさ、恐怖の最中に居るとき、
人は「嬉しい」「驚いた」「辛い」「悲しい」「怖い」とは語れない。
なぜなら、そのものと一体化(同一化)しているから。
自らが喜びや驚き、辛さ、悲しさ、怖さそのものであるから。
ある感情にまるごと呑み込まれた時、人はその感情そのものとなるがゆえに
それを言語化することは不可能となる。
それらの状態から離れて見る視点をもって初めて、自分の状態を
「嬉しい」「驚いた」「辛い」「悲しい」「怖い」と語れるようになる。
この感情そのものの自分と、その自分を見ているもう一人の自分という観点を持たない限り
人は自分がどういう状態であるかを語ること(言語化すること)はできない。
言い方をかえると
語るということは「語る自分」と「語られる自分」に分裂しているとも言える。
「悲しいと語る自分」と「悲しみの最中に居る自分」とは分裂している。
ゆえに、
語るということはもうそこにはいないという不在証明ということになる。
Φ シニフィアン研究所のhpはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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