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		「これは花です」と言う時 
		「これは花であり、私ではありません」ということ。 
		つまり、私と花は同一ではなく、別のものであることを意味する。 
		「あなた」というと 
		私とあなたは別の人間ですということである。 
		当たり前だと思うが、これが案外そうでもないようだ。 
		私とあなたは別の人間だと思っているのなら 
		あなたが「悲しい」と言って泣いたとしても 
		それは「あなたが悲しい」のであって、私は悲しいわけではない。 
		なのに、時にはどうしてもらい泣きするのだろうか? 
		腹が立ったと怒りをあらわにしている人の話を聞いて 
		どうして同じように腹を立てることがあるのだろう? 
		それは、その瞬間、私の心があなたの心と一体になったからではないだろうか? 
		つまり、私とあなたが融合して一つになり、私もあなたもなくなった状態を意味する。 
		私はあなたの悲しみと一体化し、怒りと一体化する。 
		人はこのようにいとも簡単に対象と一体化する。 
		また、対象だけではなく、過去の自分自身とも一体化する。 
		その一体化の中にとどまり、抜け出せなくなったとき、 
		悩み、苦しみ、迷いなどが生まれてくる。 
		この時、誰かに語ることによって少しは楽になるのは 
		語ること=言語化することによって、一体化の状態から抜け出す(切断される)ことになるからだ。 
		ただ、一時的に抜け出す(切断される)だけにすぎない。 
		それは他者と思っているが、実は自分の姿を見い出している他我に過ぎないから。 
		語ることによって何がきっかけか分かるかもしれないが 
		なぜそのことに一体化するのか、抜け出せないのかはまず分からないことが多い。 
		とまれ、 
		言語はこのように私と対象を切断する機能がある。 
		シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/ PR | 
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