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【2025/07/13 08:26 】 |
310)木村荘八―大震災と下町の風景

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「木村荘八―大震災と下町の風景―生きる意味 について書きたいと思います。

11月20日放送の「開運なんでも鑑定団」で木村荘八21歳の油絵が紹介され、
その時の鑑定士永井龍之介氏が木村荘八について語ったことが耳に止まりました。
それは
「木村荘八は1923年の関東大震災後、二度と戻らない下町の風景を描くようになった」
という内容です。
木村荘八(以下荘八と呼ぶ)と下町の風景の関係を通して、『生きる意味』を考えてみたいと思います。

荘八にとって東京の下町の風景は、生まれ育った馴染みの風景であり、
関東大震災により失われ、二度と戻らない風景となってしまった。
それまでは、特別な思い入れがあったとの認識はなかったかもしれない風景。
それが完全に失われ、二度と見ることができないものとなってしまった。
どんなに復興しても、元の下町は二度と見られない。
それゆえ、絵や文字で表現するしかない風景となってしまった。
つまり
『失ってしまったがゆえに、欲望する対象となった』
荘八は絵や文字を描くという行為によって、再現する対象となった。
それが荘八にとって絵や随筆を描く意味=洋画家、随筆家、版画家として生きる意味となった

荘八にとって生きる意味とは、失われた下町の風景の再現であり、
それは元の下町ではないがゆえに、永遠に尽きることのない欲望の対象となった。

この荘八のように、『永遠に失ってしまったもの』があるからこそ
それをもう一度取り戻したいと欲望する。
その欲望を持つことが、その人にとっての生きる意味となるのではないでしょうか。

生きる意味がないと思っている人、
見つからないと考えている人、
生き方に迷っている人、
誰にも必ず『永遠に失ってしまったもの』があるはずです。
それを探しませんか。
そこにあなたの生きる意味を見い出せるかもしれません。

興味を持たれた方はシニフィアン研究所のHPを参照ください。http://signifiant-lab.com/
精神分析という対話療法で『永遠に失ったもの』を知ることが可能です。
「私と精神分析」もご覧ください。http://agency-inc.com/analysis6/

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【2012/11/26 17:09 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0)
309)社会参入する=家庭を出る

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、社会参入する=家庭を出る」 について書きたいと思います。

「社会参入することができない」
「対人関係がうまくいかない」
などの悩みを持っている人が増えています。
その結果、うつ、対人恐怖、引きこもりなどになりがちです。

「287)言葉を話す―対人関係―社会参入への第一歩」 でも書きましたが、
今日は、違った観点から考えたいと思います。

社会参入するとは、文字通り社会へ入ってゆくことです。
つまり、社会ではない場所に居ることが前提だということになります。
だからこそ、参入というのでしょう。

では、社会ではない場所とは?
大抵は「家庭」ではないでしょうか。
社会参入するとは、「家庭」から「社会」へ入ってゆくこと、と考えてみます。
家庭=内=私的空間とすると、
社会=外=公的空間となります。
この二つの間に、はっきりとした区別があってこそ「入る」「出る」の区別もはっきりします。

このように考えてくると
社会に入るとは、家庭を出ることであり、
内から外へ、私的空間から公的空間へ移行することを意味し、
内と外の区別、公私の空間の区別をすることを意味します。

この観点から、
社会へ出てゆくことに抵抗が強かったり、
対人関係がうまくいかない場合は、
家庭と社会の区別がはっきりししていないと考えられます。
このような時、まずは
家庭=内=私的空間をしっかり作ることが大切でしょう。
そして、その空間が安全安心の空間(場所)であり、リラックスできることを味わうことです。
それが実感できたなら、
家庭と社会、内と外、公私の空間の違いが理解でき、
必ず、内から外へと関心を持ち出て行こうとするでしょう。

ここで、ある女性の話をしたいと思います。
彼女は、同僚とうまく会話ができず、孤立していると感じていました。
誘われても、気疲れするので、断わることが多かったとのことです。
そこで
「あなたがリラックスする場所はどこですか」と尋ねたところ
「どこにもありません」と答えました。
「お家は?」と聞くと
「妹と共有の部屋で、どこに居ても、家族の誰かが居ます」とのことです。
それに他の理由もあり、一人になれる空間がなかったのです。
これでは、緊張の連続で、リラックスなどできません。
彼女にとって、会社はもちろん、家庭内も緊張の場所だったのです。

そこで、思い切って一人暮らしをすることを提案しました。
幸い仕事は何とか続けられていたので、ワンルームマンションを借りて引っ越しました。
その決断をするまで半年くらいかかりましたが、勇気を振り絞って実行しました。
その後も紆余曲折はありましたが、今では、
「狭いながらもすべては自分の思うようにできるから最高です。
どうしてもっと早く家を出なかったのか自分でも不思議です。」

と、笑顔で当時を振り返って語りました。

彼女もそうだったように、リラックスできる家(場所)を持ち、自立するには時間が必要です。
その時間は、その人にとって必要な時間ですから、長短では測れないことを言い添えたいと思います。

シニフィアン研究所では、このような具体的な勉強会をしています。
興味を持たれた方は
シニフィア研究所http://signifiant-lab.com/までお問い合わせください。
不登校や引きこもりはhttp://signifiant-lab.com/escape/
摂食障害・暴力・リストカットなどはhttp://signifiant-lab.com/eatingdisorder/
恋愛・結婚はhttp://signifiant-lab.com/woman/
トラウマ・PTSDはhttp://signifiant-lab.com/trauma/を参照ください。

【2012/11/22 14:15 】 | 不登校・引きこもり | 有り難いご意見(0)
308)寄り添うことは聴く(知る)ことでもある

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「寄り添うことは聴くことでもある について書きたいと思います。

175)寄り添うとは? でも書きましたが、
今回は、寄り添うとは、まず相手の言うことを聴く(知る)ことだと言いたいと思います。

寄り添うためには、まず、相手が居る場所を知る必要があります。
相手が居る場所とは、
「何に関心をもっているのか」
「何について考えているのか」
「どのように感じているのか」などの意味です。

知るためには、相手に質問する(聞く)ことです。
ここで注意することがあります。
それは決して自分の想像で考えないことです。
例えば
「きっとこのように考えているに違いない」
「あれはこのように言いたいのだろう」と想像しないことです。
これは『勝手な思い込み』となる可能性があるからです。

ここで、「寄り添う」ということを理解するために、たとえ話をしましょう。
あなたの家に初めて訪ねてくる人(Yさん)に、道案内(徒歩で)します。
今、Yさんが最寄りの駅に着いたと電話がありました。
駅からあなたの家まで電話で、「Yさんに寄り添った」道案内をしましょう。


さあ、Yさんが間違わないように進むための道案内をしてください。
まず最初、どのような言葉をかけますか?

よくありがちな言葉は
「〇〇という建物(目印になるもの)があるので、そちらに歩いてください」
「〇〇という建物が見えますか?」etc

これらの案内は、Yさんとあなたの間に距離を感じる表現ではないでしょうか。
だとしたら、寄り添った案内だとは言い難いでしょう。

ここで、寄り添った道案内と思う一例を紹介します。

『Yさんの目の前には何が見えますか?』

このような質問(聞く)はいかがでしょう。
Yさんの目に映ったものを聞き、その中からあなたが思っているものを名指しする。
そうすれば、確実にYさんは目当てのものを選択できるでしょう。
つまり、
常にYさんが主導になり、あなたはYさんの言葉に付いてゆく。
そうすると、道案内しているあなたも、Yさんが今どこを歩いているかが目に浮かぶことでしょう。
Yさんもあなたが一緒に付いて来てくれていると感じ、
安心して目に映る景色を伝えてくれることでしょう。
このようにすれば、
あなたもYさんも互いに安心して、出会える瞬間を待てるのではないでしょうか。

少し長くなりましたが、
『寄り添うことは聴く(知る)ことでもある』ことが理解できたでしょうか。
寄り添うことは、相手主導で進めること。
自分の想いは白紙にし、相手の言葉をよく聞くこと(聴く)。
疑問に思ったら(迷ったら)、相手に質問すること。
このように言えるのではないでしょうか?
これらの方法は『オールOKすること』にも繋がります。

具体的な質問の仕方対応の仕方などの教室、講座をしています。
詳しくはシニフィアン研究所までお問い合わせください。http://signifiant-lab.com/

オールOK子育て法はこちらです。http://signifiant-lab.com/raise/

【2012/11/19 15:05 】 | 子育て | 有り難いご意見(0)
307)認められて自信が持てる

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「認められて自信が持てる について書きたいと思います。

「自分に自信がない」「自信が持てない」という人が居ます。
それは、認められた体験が少ないからではないでしょうか。
なぜなら、人は他者に承認されて初めて、自認できるからです。

例えば、
「自分は〇〇と思う。でもこれで合っているのだろうか?間違っていないだろうか?」
このような考えが湧き上がってきた(不安になった)時、
誰かに確かめたくなる、そして間違っていないと認められたらホッとする。
「これでこれでいいんだ。間違っていなかったんだ。」
と安心することでしょう。

このような不安は、すべての人が持っていると言われます。
鏡に映った姿を自分だと思えるのと同じです。
『これが〇〇ちゃんよ』と、誰かから言ってもらったことがあるから、
鏡に映った姿を間違いなく自分だと信じている(自認or自信)のです。
つまり、
自分以外の誰か(他者)から認められることによって、自認できるのです。
逆に言えば、
自認するためには、他者の承認を必要とすると言えるでしょう。
他者から承認されることによって自信を持つことにもつながるのです。

自分でどんなに『間違いない』と思っていても
他者の承認がないとそれが確定しない、安心できないのではないでしょうか。
だから他者の存在が気になるし、
他者の目が気になり、
他者の評価が気になるのでしょう。

「自分に自信を持てない人」
「他者の目や評価が気になる人」
それは、人間であるがゆえ他者からの承認を必要とする。
にもかかわらず、他者から承認と賞賛を受けた体験が少ないからといえるのではないでしょうか。
その誰かとは
自分が信頼を寄せる人であり、ただ一人の人である必要があるでしょう。
ここからも、『オールOKすることの必要性と大切さ』が理解できるのではないでしょうか。
≪この人だけは自分を承認してくれる≫
このように思える体験がありますか?
そのように思える人がいますか?
その体験が、どんな時も自分を支え、自信を持ち続ける基になることでしょう。

シニフィアン研究所のHPも参照ください。http://signifiant-lab.com/
不安を安心に書き換える面談、勉強会、講座もしています。
「オールOK子育て法」のサイトはこちらです。http://signifiant-lab.com/raise/

【2012/11/15 11:20 】 | 子育て | 有り難いご意見(0)
306)虐待と無視

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「虐待と無視 について書きたいと思います。

虐待されるのが分かっているのに、結局舞い戻ってしまう人がいます。
周囲の人は、『どうして?』と理解に苦しむことでしょう。
それは
その人にとって、自分が間違いなく存在し、生きていることの証となっているからはないでしょうか


『虐待は嫌だけど、少なくとも虐待されている間は自分が生きている実感がある』
『私は彼に、(虐待する対象として)必要とされている』
このように語った人がいました。

何よりも『無視される』ことを恐れているかのようです。
それほど、無視されることは、人にとって辛いことなのです。
(これについては、以前にも書きましたが)

無視=自分という存在が無くなるに等しい

だから
「無視されるよりは、まだ虐待の方がましだ。だって、私がそこに居るから虐待する。
居なかったら、虐待すらできはしないのだから。」
と思ってしまうのかもしれません。
つまり、
虐待されることが、少なくとも自分が存在し、生きていることの証となっているからです。
このように考えてみると、
虐待されるのが分かっていながらも、結局戻ってしまう理由が少し理解できるような気がします。

どうしてこれほどまでに、人は自分の存在が無くなることを恐れるのでしょうか?
どうしてこれほどまでに、自分の存在を証したいと思うのでしょうか?
これについては、後日考えてみたいと思います。

ご意見、ご質問はシニフィアン研究所までご連絡ください。
http://signifiant-lab.com/
トラウマのサイトもあります。http://signifiant-lab.com/trauma/

【2012/11/13 14:31 】 | 非行・家庭内暴力・DV | 有り難いご意見(0)
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