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家族の誰かが、ある日突然、学校や職場へ行かなくなった。あるいは、休む日が増えてきた。 PR |
「自分の居場所がない」という人は
自分という存在を肯定してくれるただ一人の人が居なかったということ
自分の居場所があると思える人は
自分を肯定してくれるただ一人の人がいる
自分がある特定の誰かに必要とされている
自分がその人の心に存在している
そして、自分もその人を必要な人、大切な存在だと思えるということでもある
人はどうして自分を肯定してくれる他者を必要とするのだろうか?
それは、人が人となってゆく過程の中で、どうしても自分を映してくれる他者(鏡)を必要とするから
人は生きるに必要な衣食住があれば自然に人となってゆくのではない
体の成長に応じて心も成長してゆくのではない
心は適切な世話行動と他者からの語らいによって成長してゆくもの
人が人となってゆくには
「私は○○の人間です」と語れること
すなわちアイデンティティーを持って社会に参入するということでもある
自分はどんな人間か?
それを形成するためにはどうしても他者を必要とする
つまり「鏡」と必要とする(ラカン「鏡像段階」)
いわゆる姿形を映す鏡を見て「私ってこんな体型、顔形なんだ」と知ること
そしてもう一つ大切な鏡
それは他者から「あなたは○○な人ね」と語られること
この両方の鏡に映る姿を総合して(快感原則が作用する)
私って○○な人間だと思う(想像的同一視)
私は私だと言ったとしても
それを肯定してくれる人が皆無だったなら
独語の世界を脱せない
なぜなら言語は自己言及の不可能性を内包しているものだから
自分以外の他者が「それがあなたよ」と肯定してくれて初めて
自分は自分であると同定できる
他者からの承認があって人は自分を○○な自分だと認められる
最初期にはこのような他者承認がどうしても必要となる
また
自分とはどういう人間であるかを知るためには、ただ一人の人を必要とする
複数は必要としない
なぜなら複数になれば、複数の映し方(語り)があり、一定しないから逆に混乱の元になる
このようにして肯定してくれるただ一人の人を持てなかったなら
その人は後に社会の中で否定に出会ったとき
どこにも自分を見いだせずに立ち止まってしまうだろう
「自分とは?」の問いかけに答えられなくなるだろう
自分の居場所とは、ある自分固有の空間的な場所があるだけでなく
何よりも自分を肯定してくれるただ一人の人(場所)があると思えることである。
自分の居場所がないと感じている人は
やがて「この世から消えてしまいたい」と 思い
失踪してしまう可能性が出てくるだろう
お問い合わせはシニフィアン研究所 090-1951-1978 むかい あいまでどうぞ |
社会参入するとは、徒党を組んでおしゃべりをする仲間の一員になることではない。
ある組織や団体に所属することをもって、社会参入しているとは言いがたい。
社会という象徴的なものが支配する中に、自らも象徴的なものとして参加することである。
象徴的なものを介して他者を認め、
自らも他者と共に象徴的な存在として社会の一員として認められることである。
つまり、「どう自己規定しているか」
「何のためにそこにいるか(それをしているか)に答えられること」である。
ある集団や組織は、ある理念や目的という象徴的なものの下に集う関係性をもち、機能している。
そこにある理念や目的に賛同しなくなったなら、帰属する意味を見いだせなくなる。
その時、問いかけが生まれることになる。
「どうしてここにいなければならないのか?」
「どうしてここにいる意味があるのだろうか?」
この問いかけに、
それなりの答えや理由(内容は何であれ)が見いだせたならよいが
理由付けができなかったなら、人は立ち止まってそこから動けなくなってしまう。
社会は殆どすべてが象徴的なものに満ちている。
紙幣などはその代表である。
元々は「紙」であり、そこにある一定の模様や数字などが規約によって作られたものである。
それが想像できないような価値を帯びて流通し、人を動かし
時には戦争にまで発展することもありうる。
ところが、一度、何の価値もないとなったなら元の紙くず同然のものとなる。
そこに生きる人達が、そのものに象徴的な意味付けを認める限り
それなりの価値と意味付けを帯びて機能する。
つまり、「信用」と言われるもの。
世の中の象徴的なものを信じられなくなったら、人は生きられなくなるだろう。
何よりも人は象徴的な存在である。
その証左として、固有名詞として戸籍に登録される。
そして、その社会で象徴的な存在であると認知される。
自分を社会の中で象徴的な価値ある存在であると規定できるからこそ
他者も社会も自分にとってそれなりの価値があり、生きる意味があると規定できる。
自己規定できるからこそ意味を見いだせる。
社会が不完全で不満だらけだとしても
自らも象徴的なものの一部として参加してゆける。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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引きこもって外に出ない、出たくないと思う
そのように言語化できずに引きこもってしまう
そのきっかけとなる理由は様々だが
根本的には何かをしたいという欲望が無いと言える
欲望がないのは、欠如を知らないからでもある
自分には何が欠如しているのか?
足りないものは何か?
これがはっきり自覚できないと「欲しい」が出てこない
この欲望を知る、持つ以前の問題として
しっかり自分だけの安心できる空間(巣)を作ることが必要である
その意味において「引き込もり」は自分の「巣作り」だと言えるし
人は必ずその時期を必要とするようだ
「引き込もり」はエネルギーがなくなったとか
自我が脆弱だとか言われたりするが
何よりも「巣作り」の時期だとも言えよう
そのためには
自分だけの部屋を持ち、中から鍵をかけて誰も入れない空間を作る必要がある
この個室が作れない場合は
押入れやダンボールや部屋の隅っこがその代わりになる
家の中にその空間が作れないときは外に求める
誰も知らない自分だけの空間、邪魔されない安心できる場所を見つけ
そこに閉じこもる
たっぷり満足したら必ずそこから巣立つ時がくる
それを周りが邪魔せず暖かく見守れるかどうか?
密度濃くできるかどうかが、巣立つまでの時間を決めるとも言えるだろう
親鳥が巣を作り、安心してヒナを育てるのと似ている
その間親鳥がすることはただ一つ
ひたすら卵を温めて守ること
決してそこを離れることなく温めるだけ
それ以外は何もしない
何もしないことが一番必要な仕事となる
巣作りをし、安心して自分を育てること
この間はただただ何もせず、エネルギーを使わないこと
これが結果的に巣立つときのエネルギーにもつながる
引きこもったなら周囲は決して邪魔をせず、
巣立つ時を温かい眼差しで見守ること
決して口を出さないこと
つまり、巣立ちを求めないこと
この体験を持てなかったなら個の確立が難しかったり
自分と他者の区別がつかなかったり
はては他者が侵入してくるイメージを持ったりする可能性が出てくる
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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