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【2024/05/19 12:22 】 |
不登校や引きこもり

家族の誰かが、ある日突然、学校や職場へ行かなくなった。あるいは、休む日が増えてきた。
このままでは将来どうなってゆくのか心配だ。何とかしないと!
一日も早く元の生活に戻さないと大変なことになってゆくのではないか?
このまま社会から脱落してしまい、ダメになってしまうのではないか
あるいは、どこか悪いのではないか?病院へ連れていかないと手遅れになるのではないか?
誰が悪いんだろう?私の育て方、接し方が悪かったのだろうか?
様々な想いが錯綜し、どんどん不安になってしまうのも当然のことでしょう。
こんな時、視点を変えてみましょう!!
 「なぜ?」と問いかけるのではなく
「何を言おうとしているのだろう?」と。
本人に聞いても、きっと「わからない」と答えることでしょう。
あるいは、友達が、先生が、授業が、、、と言うかもしれません。
それもあるでしょう。しかし、それらは一つのきっかけでがある場合が多いのです。

1) 聞いてみましょう「何かあったの?」と。
答えは期待しないこと。根堀り葉堀り聞かないこと。
感情的にならないこと。自分の想いを押し付けないこと。
「あなたに関心を持っている。大切な存在である。」ということを伝えることが目的だから。

2) 認めること
学校や職場に行かない、行けないことを指摘しないこと。
行かないとどうなるか、どれだけ大変なことか、困るかの話をしないこと。
 引き込もり状態になると、たいていは昼夜逆転し、お風呂や食事など日常生活が乱れてきます。
当然、家族は心配して注意したくなります。でも注意ではなく、声かけしましょう。
「ご飯できたよ」「お風呂わいたよ」「おはよう」「おやすみ」と。
家族の生活リズムを言葉で伝えましょう。
自分がどういう状態なのかは、誰よりも本人が一番知っています。

3)焦らないこと
一日も早く元の生活に戻って欲しいと焦らないことです。
やっと、ある意味で気づき、自己主張できるようになったのですから。
必要な時間をかけて、自らの意志で自分の人生を引き受けるようになると信じましょう。
人は誰でも「欠如」を自覚し「欲望」を持てば行動します。
動かない、動けないのは「欠如を自覚しない」「欲望がない」からです。
つまり、欠如を感じ(お腹がすいた)、欲望する(何か食べたい)から行動する(冷蔵庫を開けて探す、
スーパーやコンビニへ行く)のです。
決して怠け者ではないのです。
何らかの事情で欲望がなくなった、あるいは無いことに気づいてしまったのでしょう。

4) 気長に見守りましょう
家に引きこもっているのなら、家が一番の居場所です。学校が居場所の人もいるかもしれません。
友達の家が居場所なら友達の家に行くでしょう。居場所が無いと言う人には居場所を作ってあげましょう。
居場所が無いと、あちこち転々と居場所を求めるか、家の中の決まった場所に引き籠って動かないでしょう。
家以外の場所に出て行くからといっても、必ずしも社会へ出る一歩だとは限りません。

5) 悩み、苦しみは同じ悩みを持つ人と語り合い、吐き出し合い、学びましょう。
ただ、愚痴の吐き出し合いに終わるのではなく、気づいたことを話し合い、学び合いましょう。
「あなたのことを心配しているから」という名の下に、本人に吐き出すのは
双方にとって悪循環のもとになる可能性が高いからやめましょう。

6) これを機会に問いかけてみては?
不登校や引き込もりというメッセージはどういうメッセージなのだろうか?
何を言いたくて言えないのだろうか?
不登校や引き込もりがきっかけで家族に何か変化があったか?
今までとは違ってきたことはないだろうか?
本人だけではなく、家族全体のこととして見たとき、何か見えてくることはないでしょうか?

7) 必要だからしている
言葉で説明できないけれど、なぜだか解らないけど、これだけは確かなこと。
「今、自分にとって必要だからしている」

追記
・家族、本人が自ら「不登校」「引き込もり」と言わないこと。
 それらの呼称は、ある枠組みから付けられたもの。
 その言葉を自ら語るということは、それが意識的、無意識的であるに関わらず
 その呼称を自ら承認した、受け入れたということに繋がることだから。
 時には、その呼称が隠れ蓑のようになり、
 知らぬ間にその中が妙な居心地の良さを与え、
 そこからの歩み出しを目指しながらも、いつしか狭い居場所となり、時には排他的にもなるかもしれない。
 例えば
 「経験した人にしか分からない」
 「他の人に話したってどうせ理解してもらえない」
 「経験者同士だから、分かってもらえる、分かってくれているはず」
 「私たちは他の人達と違う」
こんな気持がどこかに生じたなら、同じ悩みや目的を持った場がいつしか単なる愚痴の吐き出し合いや
理解しない人たちへの非難や批判に終始する可能性が出てくる。
そして、そのことがその場に居る人の求心的排他的なエネルギーとなって、逆にどんどん小さくなり
やがて消滅する可能性も出てくるかもしれない。

それを防ぐには、異分子だと思える他者を受け入れること。
その他者と同化するのではなく、異分子なら異分子のままでその場に抱き込みつつ
その異分子の目線から自らを見てみる。
これが求心力を持ちつつ、外へとどんどん広がってゆくパワーとなると思う。
それがひいては、家族の中にある様々な悩み、苦しみや問題にも通じるのではないだろうか?
物事の是非を問題にするのではなく、
なぜだか今は理解出来ないけれど必要な事柄なんだろうと抱き込んでゆく視点、
それを「承認」あるいは「受容」と呼んでよいと思う。

お問い合わせはシニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/
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【2011/08/31 20:36 】 | 不登校・引きこもり | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
居場所がない―消えてしまいたい
「自分の居場所がない」という人は
自分という存在を肯定してくれるただ一人の人が居なかったということ
自分の居場所があると思える人は
自分を肯定してくれるただ一人の人がいる
自分がある特定の誰かに必要とされている
自分がその人の心に存在している
そして、自分もその人を必要な人、大切な存在だと思えるということでもある
 
人はどうして自分を肯定してくれる他者を必要とするのだろうか?
 
それは、人が人となってゆく過程の中で、どうしても自分を映してくれる他者(鏡)を必要とするから
人は生きるに必要な衣食住があれば自然に人となってゆくのではない
体の成長に応じて心も成長してゆくのではない
心は適切な世話行動と他者からの語らいによって成長してゆくもの
人が人となってゆくには
「私は○○の人間です」と語れること
すなわちアイデンティティーを持って社会に参入するということでもある
 
自分はどんな人間か?
それを形成するためにはどうしても他者を必要とする
つまり「鏡」と必要とする(ラカン「鏡像段階」)
いわゆる姿形を映す鏡を見て「私ってこんな体型、顔形なんだ」と知ること
そしてもう一つ大切な鏡
それは他者から「あなたは○○な人ね」と語られること
この両方の鏡に映る姿を総合して(快感原則が作用する)
私って○○な人間だと思う(想像的同一視)
 
私は私だと言ったとしても
それを肯定してくれる人が皆無だったなら
独語の世界を脱せない
なぜなら言語は自己言及の不可能性を内包しているものだから
自分以外の他者が「それがあなたよ」と肯定してくれて初めて
自分は自分であると同定できる
他者からの承認があって人は自分を○○な自分だと認められる
最初期にはこのような他者承認がどうしても必要となる
また
自分とはどういう人間であるかを知るためには、ただ一人の人を必要とする
複数は必要としない
なぜなら複数になれば、複数の映し方(語り)があり、一定しないから逆に混乱の元になる
 
このようにして肯定してくれるただ一人の人を持てなかったなら
その人は後に社会の中で否定に出会ったとき
どこにも自分を見いだせずに立ち止まってしまうだろう
「自分とは?」の問いかけに答えられなくなるだろう
 
自分の居場所とは、ある自分固有の空間的な場所があるだけでなく
何よりも自分を肯定してくれるただ一人の人(場所)があると思えることである。
 
自分の居場所がないと感じている人は
やがて「この世から消えてしまいたい」と 思い
失踪してしまう可能性が出てくるだろう

お問い合わせはシニフィアン研究所 
090-1951-1978 むかい あいまでどうぞ
【2011/08/19 09:06 】 | 不登校・引きこもり | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
社会参入するとは

社会参入するとは、徒党を組んでおしゃべりをする仲間の一員になることではない。
ある組織や団体に所属することをもって、社会参入しているとは言いがたい。
社会という象徴的なものが支配する中に、自らも象徴的なものとして参加することである。
象徴的なものを介して他者を認め、
自らも他者と共に象徴的な存在として社会の一員として認められることである。
つまり、「どう自己規定しているか」
「何のためにそこにいるか(それをしているか)に答えられること」である。
 
ある集団や組織は、ある理念や目的という象徴的なものの下に集う関係性をもち、機能している。
そこにある理念や目的に賛同しなくなったなら、帰属する意味を見いだせなくなる。
その時、問いかけが生まれることになる。
「どうしてここにいなければならないのか?」
「どうしてここにいる意味があるのだろうか?」
この問いかけに、
それなりの答えや理由(内容は何であれ)が見いだせたならよいが
理由付けができなかったなら、人は立ち止まってそこから動けなくなってしまう。
 
社会は殆どすべてが象徴的なものに満ちている。
紙幣などはその代表である。
元々は「紙」であり、そこにある一定の模様や数字などが規約によって作られたものである。
それが想像できないような価値を帯びて流通し、人を動かし
時には戦争にまで発展することもありうる。
ところが、一度、何の価値もないとなったなら元の紙くず同然のものとなる。
そこに生きる人達が、そのものに象徴的な意味付けを認める限り
それなりの価値と意味付けを帯びて機能する。
つまり、「信用」と言われるもの。
世の中の象徴的なものを信じられなくなったら、人は生きられなくなるだろう。
 
何よりも人は象徴的な存在である。
その証左として、固有名詞として戸籍に登録される。
そして、その社会で象徴的な存在であると認知される。
自分を社会の中で象徴的な価値ある存在であると規定できるからこそ
他者も社会も自分にとってそれなりの価値があり、生きる意味があると規定できる。
自己規定できるからこそ意味を見いだせる。
社会が不完全で不満だらけだとしても
自らも象徴的なものの一部として参加してゆける。
 
 
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【2011/08/10 08:09 】 | 不登校・引きこもり | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
引きこもりは巣作り
引きこもって外に出ない、出たくないと思う
そのように言語化できずに引きこもってしまう
そのきっかけとなる理由は様々だが
根本的には何かをしたいという欲望が無いと言える
 
欲望がないのは、欠如を知らないからでもある
自分には何が欠如しているのか?
足りないものは何か?
これがはっきり自覚できないと「欲しい」が出てこない
この欲望を知る、持つ以前の問題として
しっかり自分だけの安心できる空間(巣)を作ることが必要である
 
その意味において「引き込もり」は自分の「巣作り」だと言えるし
人は必ずその時期を必要とするようだ
「引き込もり」はエネルギーがなくなったとか
自我が脆弱だとか言われたりするが
何よりも「巣作り」の時期だとも言えよう
 
そのためには
自分だけの部屋を持ち、中から鍵をかけて誰も入れない空間を作る必要がある
この個室が作れない場合は
押入れやダンボールや部屋の隅っこがその代わりになる
家の中にその空間が作れないときは外に求める
誰も知らない自分だけの空間、邪魔されない安心できる場所を見つけ
そこに閉じこもる
たっぷり満足したら必ずそこから巣立つ時がくる
それを周りが邪魔せず暖かく見守れるかどうか?
密度濃くできるかどうかが、巣立つまでの時間を決めるとも言えるだろう
 
親鳥が巣を作り、安心してヒナを育てるのと似ている
その間親鳥がすることはただ一つ
ひたすら卵を温めて守ること
決してそこを離れることなく温めるだけ
それ以外は何もしない
何もしないことが一番必要な仕事となる
 
巣作りをし、安心して自分を育てること
この間はただただ何もせず、エネルギーを使わないこと
これが結果的に巣立つときのエネルギーにもつながる
 
引きこもったなら周囲は決して邪魔をせず、
巣立つ時を温かい眼差しで見守ること
決して口を出さないこと
つまり、巣立ちを求めないこと
この体験を持てなかったなら個の確立が難しかったり
自分と他者の区別がつかなかったり
はては他者が侵入してくるイメージを持ったりする可能性が出てくる    
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/ 
【2011/07/31 08:23 】 | 不登校・引きこもり | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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