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それは「自己愛」を高めることから。
自己愛には三つの要素がある。
「自己肯定感」「自己価値観」「自信」
自己肯定感は自分で自分を肯定できる(良しと思える)こと。
自己価値観は自分は生きるに値する存在であると思えること。
自信は自分を信じられること。
では、自己愛はどのようにして作られるのか?
それは対象恒常性と基本的信頼感から。
対象恒常性は、常に側にいて、まなざしとスキンシップを要求に応じて与えてくれるただ一人の人が居ることから
人の精神内界に作られる(=内在化)。
ただ側にいるだけではなく、要求に敏速に的確に行動で応えられることがその条件となる。
基本的信頼感は対象恒常性を基礎に「どんな私でも受け入れてくれる(=オールOK)体験」によって培われる。
つまり、承認と賞賛から作り上げられる。
ここでいう承認とは要求を聞き入れることを意味する。
要求に対する是非は持ち込まないことが前提となる。
その要求は正しいか、間違っているかの判断は持ち込まないこと。
要求の内容と、要求するその人自体とは別だと認識する視点が大切。
もし、その要求が良くない内容だとしても、要求するその人が悪いとは限らないということであり、
言い換えれば、要求の内容に対しては反対だが、あなたが嫌いという訳ではないということである。
基本的にその要求の是非は要求する本人が一番知っているものである。
では、なぜ悪いと知っているのに要求するのか?
それは、相手を試していると言える。
つまり「これでも私を受け入れてくれる?愛してくれる?見捨てない?」
これを受け入れられたなら、それからは不必要な要求はしなくなる。
なぜなら、もう試さなくても私を見捨てない、肯定してくれるという基本的信頼感が持てたから。
そして、褒めるに価する言動に対しては適切な賞賛を与えること。
過剰な賞賛、あるいは交換条件付きな賞賛はしないこと。
たとえば
頑張ったからこれを買ってあげるとか、言う事聞いてあげるなどなど。
よく頑張ったね!良かったね!など共に喜び、分かち合い賞賛すること。
これを共感するという。
決して上から目線での物言いはしないこと。
これらの対象恒常性と基本的信頼感を持てたなら、人はより自己愛を高められるであろう。
人は、何よりも自己愛を傷つけられることを一番恐れ、
ひいては自己肯定感、自己価値観や自信がゆらぎ、生きるエネルギーが枯渇する一因となる。
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子どもは母が世界で一番大好きな愛の対象である。
状況からくる影響により、大嫌いだと語る人もいるかもしれない。
それでも、自分が存在することを選択してくれた人であることは疑う余地のないことである。
子どもには自分の存在を云々することは不可能であり、
主に母なる人の判断に委ねられているからだ。
それはとまれ、
子どもはいつも母を見ている。
母だけを見ているといっても過言ではないと思う。
母の喜ぶ顔が見たいと思う。
母の言う通りの良い子になろうとする。
年齢が小さければ小さいほど世話をしてもらう必要性が高いから、母の言う事を聞く。
それでないと、家は居心地の良いものとならないからだ。
母の方も自分の言う事をよく聞く子にしたいと思う。
しつけという名の下に、この子の仕合せのためだと信じて。
しかし、それは母の都合だ。
母が自分のしたいことが邪魔されないように、自分が楽なように子どもを操る。
時には、自分が果たし得なかった夢を、我が子に背負わせてしまう。
また、家業の跡取りとしての役目を押し付けるかもしれない。
世間から素晴らしい親だとの評価を得たいためかもしれない。
それらの是非をいうのではない。
母が我が子に「こうなってほしい」「ああなってほしい」と願うことは大切なことである。
原初、子どもは母に欲望される存在であることが何よりも必須である。
しかし、
母が我が子に求めるものは母の想いであること。
それは言い換えれば、子どもを母の欲望の対象にしてしまうことである。
子どもを母の欲望の対象にしてしまうとは、母に呑み込まれて自立できないということと等価である。
自立した人となるためには、どうしても母への反抗が必須となる。
母への反抗期がない子は後に、自立することに問題が生じる可能性が大きい。
ゆえに、母の良い子になってはいけないというのである。
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出産と共に「母」という役目が一つ加えられる
「母になる」とはどういうことか?
それは
ある一定の期間、自分の時間が極度に制限されること
自分の主導権を放棄する覚悟が必要とされること
これらの観点から考えてみることにしよう
乳児は他者の世話を受けなければ片時も生きられない存在である
ゆえに、授乳に始まり、お風呂や着替えなど24時間体制の世話を求めている
お腹がすいた、眠い、オムツが濡れたなど
昼夜かまわず、ひたすら要求し続ける
母の側の都合など一切おかまいなしとなる
不快が快に変わるまで要求し続けることになる
昼夜逆転の睡眠や夜泣きなど、母にとっては辛い要求となることが多い
それでも世話し続けなければならない
「こんなに一所懸命してるのに、赤ちゃんが可愛いなんて、そんなことは嘘だ!」
と叫びたくなる状況となる
何一つ、母の思う通りにはならない
やっとの思いで寝させた頃にはもうクタクタ
ホッとする間もなく主婦の仕事が待っている
自分の時間など、どこにもない
こんなはずじゃなかった
周りの協力も得られないとなると
育児ノイローゼや虐待へとひた走る可能性が出てくる
一方、夜泣きも昼夜逆転もさほどなく、育てやすい赤ちゃんもいる
なぜ?
要因はさまざまある
とまれ、母になるとは
「ある一定の期間、24時間体制で主導権を赤ちゃんに譲り渡す覚悟を持つこと」
だと言える
この覚悟を持った母への唯一のごほうびは「赤ちゃんの笑顔」である
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人は寄る辺なき存在として生まれるがゆえに、世話してくれる存在を必要とする。
「世話」とは、求めている時に(敏速に)、求めていることだけを(的確に)、行動で応えること。
別名「母性行動」と呼ぶ。
母性行動の基本は主に授乳を通した「まなざし」と「スキンシップ(抱っこ)」から始まる。
「お母さん、私を見て!」というメッセージを送り続けている。
まだ、言葉を理解しない時から。(実は正確な表現ではないが、今はこのままにしておく)
この母のまなざしとスキンシップが母という存在に「愛着」というものを感じる第一歩となる。
ゆえに、
まなざしとスキンシップ(抱っこ)は愛着の微分係数であると言う。
また、この愛着が「欲望」を生み出す源ともなる。
母の若くて柔らかい肌の温もり、おっぱいの感触、匂い、
これらが基本となって
求めても手の届かない、黄金比のかなたにある「対象a」を永遠に求め続ける旅路を行く旅人となる。
つまり
「これだ!」と思って掴むが、「やっぱり違う・・・」と手放し
「どこかにあるはずだ」とまた掴んでは放す。
その時々によって、掴む対象は変化するだろう。
しかし、そこにはある共通項が見出せる。
それをフロイトは「一の線」と言った。
まさしく、人は母の代理物を求め続けることに自らの時を費やしていると言えるのではないだろうか?
それらの基本となる「母の世話」=母が常に側にいることが非常に重要な要素となる。
少なくとも4歳までは、片時も子どもの側を離れることなく母性行動をすること。
これが求められる。
では、最初の「愛着」がなかったら、母の「まなざし」と「スキンシップ(抱っこ)」がなかったらどうなるか?
想像してみてほしいと思う。
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