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【2025/07/15 13:13 】 |
子どもはなぜウルサイのか?

夏休みも後半
長い夏休みは子どもがうるさくて嫌だ
早く学校や塾へ行って欲しい
早く大きくなって手がかからなくなって欲しい
そう語るお母さんは多い
 
確かに、小さい子どもが側にいると色々言ってくる
「お母さん、おかあさん」としょっちゅう声をかけてくる
今年も暑いし、節電だし、尚更暑く感じる
子どもに振り回されるのはごめんだと叫びたくなるのも頷ける
 
子どもにとって「お母さん」は世界で一番大好きな対象
それは以前にも書いた
それ以外に、少し考えてみよう
「子どもは本当にウルサイのか?」と
 
たいていの場合
子どもが母に要求していることは大したことは無い
つまり、
大して時間がかかることを要求していない場合が多いのではないだろうか?
「お母さん、ジュースちょうだい」
「お母さん、一緒に遊ぼう」
「お母さん、コレ見て」etc
 
要求が出た時に、すぐにその通りに動けばそれで済む
なのに、
「ちょっと待って」
「後でね」
「今、忙しいから」
と言ってしまう
 
子どもはお母さんが何かをしている時に要求を出す
もっと言えば
お母さんが一番忙しい時に限って要求する
だから
「もう本当にうるさいんだから!」
と言いたくなるのだ
 
本当は子どもはうるさくない
しかし、
お母さんは、自分がしたいことを中断させられるから邪魔だと感じる
邪魔されるから「ウルサイ子どもだ」と感じてしまうのだ
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【2011/08/17 23:31 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
かゆみが意味するもの

「かゆみ」には湿疹やアトピー性皮膚炎、乾燥や虫さされなど外的要因によるものなど様々ある。
 
かゆみは愛の対象から理解されたいという強い欲求である。」
と書いたのは、ディディエ・アンジューである。
その前に「幼年時代、母親や家族からの優しく、温かい、確固とした、安心させるような、意味深い接触に出会えなかった場合」とも書いている。
このような状況で育てられた人は、たぶん皆無と言える。
だとしたら、ほとんどの人は何らかの「かゆみ」という手段を使って
自分の欲求を表現する可能性は大きいと言えるだろう。
 
確かに、臨床の中で「皮膚はクライアントの語らいである」と感じることも多々ある。
「かゆみ」の場所が同じであっても、その語らいはクライアント固有のものである。
かゆみによって、肌に触れて欲しい、注目して欲しいとの欲求を訴えていることもあるし、
自ら血が出るまで掻きむしることによって、自分の領域を意識する場合もある。
痛みとその痕跡によって生きていることの実感を得る人もいる。
嫌悪する人の声を聞いたとたん、全身がかゆくなってしまった人もいる。
好きなアーティストの音楽をiPodで聴くことを止めた途端、耳の後ろがかゆくなり掻きむしったという人もいる。
それは心地良い声によって自らが至福の時を過ごすことを中断することによって
無意識にかゆみとなって身体症状化となって現われた。
その証拠に、皮膚科のどんな薬も効かず、分析の場で言語化した途端、かゆみは消えた。
 
その人にとっての「愛の対象」から理解されたいという強い欲求が、
皮膚という身体の一部を使って「かゆみ」という症状を作り出すのなら、
その「かゆみ」の意味するものをその人固有の言語に置き換えたら、消失するのは確かだと言えるだろう。
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
【2011/08/12 08:59 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
人見知りをする
生後8ヶ月前後になると、
ママ以外の人が近づいてきたり、抱っこしようとするとすぐに泣き出す
いわゆる「人見知り」をするようになる
 
この「人見知り」は赤ちゃんの発達上、とっても大切な意味を持つと言われている
というのは、ママとママ以外の識別ができるようになった証となるからである
その最初に洗礼を受けるのが、たいていはパパ
ある日を境にパパが帰宅して
「ただいま^^」と言いながら近づくと、急に泣き出す
「おいおい お前のパパだよ・・・」
と言うことになる
 
これは、赤ちゃんが自分の世話をしてくれる安心できるただ一人の人とは違う
と認識したということを意味する
 
つまり、ママが赤ちゃんの安全安心基地となったということ
いわゆる「基本的信頼感」の基盤が出来始めたと言える
安全安心基地があるから、外に出て行けるのである
何かあったときはここに戻ってくればいいんだと思える場所ができてきたということ
これが後に社会へ参入することをより容易にするといわれている
 
では「人見知り」をしないということはどういうことか?
一つには常に側にいて世話をしてくれる唯一人の人がいない
複数の人が世話をする、不特定の人が世話をする
側にいる人が適切な世話をしてくれない
放ったらかしで気まぐれな世話だけしかしない
これらの環境の中に居る可能性が考えられる
 
安心基地がないと、常に不安な気持ちになり
ちょっとしたことで見捨てられるのではないか?といった不安感が突き上げてくる
常に落ち着かない気分になる
怖がりになったり、神経質傾向になったり、すぐに何かにしがみつきたがる
などなどの傾向が強くなるようである
 
こういった意味において、生後8ヶ月前後の乳幼児にとって
「人見知り」をするかしないかは非常に重要だと言われるのである
 
 
シニフィアン研究所のHPはこちら  http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
【2011/08/03 06:58 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
女は時には子どもを利用する

女は子をなすことができる。
体内で創り出せるものということでは「子ども」も「糞便」も等価と言える。
精神分析的には「糞便」は母への贈り物との意味をもつ。
母のおっぱいが形を換えたものだから。
母の無意識は産む子どもの性別までコントロールできる。
 
女が子どもを妊娠する理由にはいくつかの要因がある。
「私は母からどのような眼差しで見られたのだろうか?」
つまり
「母に愛された、必要とされた存在かどうか?」を知りたいと思ったとき、子どもを欲しくなる。
その人は自分と同性の女の子を産む。
なぜなら、自分がわが子を初めて見たときの眼差しが
母が自分を見た眼差しに重なるからだ。
わが子を「可愛い」と感じたなら、母も自分を「可愛い」と感じてくれたに違いないと思える。
逆に「可愛い」と思えなかったなら、そのような眼差しだったと感じることだろう。
このように女は子をなすことで確かめられる。
もし、母が自分をどのような眼差しで見たか、特に憎しみの眼差しだと確信している人は
子をなすことをしないだろう。
なぜなら、確かめなくても自明だからだ。
 
男性を自分に繋ぎ止めるために妊娠する場合もある。
複数の女性と競合している場合、
自分から心が離れていってしまうかもしれないと不安になった場合、
自分のことを愛してくれているのかを確かめたくなったとき
そんな時「妊娠」することで相手の反応を確かめる。
 
自分を必要としてくれる存在を欲しいと思っている人。
この場合は、子どもが2歳を過ぎて言葉を覚え「イヤ」と言い始めたら
次の子を妊娠する。
 
このように意識的にも、無意識的にも
女は「子をなすこと」を利用する場合がある。
母となった人は「自分はどうして子どもを欲しいと思ったのだろうか?」
と自問してみてはどうだろうか?
もちろん、そのことの是非を云々するつもりはない。
臨床上、こういったことが見えてくる場合があるから書いたまでである。
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
【2011/08/02 11:34 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
疾病利得-病気や怪我も一つのメッセージ
疾病利得」という言葉がある。
病気をすることで、その人にとって何らかの利得があることをいう。
まるで、サスペンスのセリフと同じだ。
「病気やけがをすることで、その人にとってどんな得があるのか?」
このように問いかけてみると、その人の欲望が見えてくる。

例えば、
学校や習い事に行きたくない子どもが一番使う手は
「お腹が痛い、頭が痛い」という言葉だ。
親はびっくりして病院へ連れて行くが、ドコも悪くないと言われる。
あるいは、
「サボりたいんだな」と見抜く親は聞く耳を持たない。
この手が通用しないと感じると、次の手段へと出る。
本当に病気になったtり、怪我をして入院する。

ここまでくると
堂々と学校や職場、塾、習い事を休めるし注目される
周りの同情やいたわり、温かいまなざしをもらえる。
あるいは
一番独占したいと思っている人を独占できる。
もちろん、意識している場合よりも無意識的な場合のほうが多い。
本人もまさか、自分が好き好んで痛い思いなどするはずはないと思っている。

このように
人は自らの身体を傷つけ、痛い思いをしてまでも
手に入れたいものを手に入れるもののようである。
なお、休みたい期間に応じた程度の病気やけがをする。
つまり、長く休みたいければそれだけ重症となるだろうし、                                               短期間で目的を果たすならば軽症となるだろう。
疾病利得だと感じてソレを指摘しても無意味である。
手に入れるまではどんな方法を使っても求め続けるものだから。
何よりも、求めているものを与えることでしか埋まらない。
気付いたなら満足するまで与え続けよう!
このように、時として病気や怪我も言語と同等のメッセージである。                                               否、言語化できない、しても聞いてもらえないから、疾病利得を使うのである。
何を求めているか知りたい方は下記へ
シニフィアン研究所のHPはこちら  http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
【2011/08/01 07:04 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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