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	人は二つの時を生きている。 
	「身体の時」と「精神の時」 
	「身体の時」は不可逆的に時間軸に沿って変化している。 
	一方「精神の時」は無時間性で時空を超えている。 
	可逆的にいつの時代にもどこの世界にも瞬時に飛んでいける。 
	まるで、ドラえもんのどこでもドアさながらである。 
	この「精神の時」を考えてみたい。 
	精神の時を生きているとは言語活動によって生きている=シニフィアンの運動をしている 
	つまり、人は何らかのせきたてとも呼べる動因(言語)により 
	何らかの対象(言語)に向かって突き動かされている。 
	それが何なのかに対して人は無知である。 
	ここから 
	「私は一体何がしたいのだろうか?」 
	「何のために生きているのだろうか?」 
	との問いかけが生じてくる。 
	例えば、何らかの目標(言語)に達したとき人は満足を得る。 
	それは「精神の死」と呼べる。 
	美味しい物を食べたいと欲し、それを食べられたなら「満足」という小さな死を味わっている。 
	そこから動くためには(=生きる)また何らかの対象(言語)を打ち立てなくてはならない。 
	それがないと人は動こうとしない。否、動けないのだ。 
	この何らかの対象を立てる=言語化する 
	つまり、言語によって人は動く。 
	「お腹がいっぱいになった、さあ次は○○しよう」のように。 
	日常の中でこのような小さな死と生を繰り返している。 
	逆説的に言えば「人は生きるために日々死んでいる」 
	「眠れば死、目覚めれば生」なども同じ意だろう。 
	悲願などと言われ、ある目標を設定し、それを達成したとき 
	その人はしばらくは動けないだろう。 
	それは感動の嵐と満足を味わっているからだ。 
	満足してしまったら人はそこから動こうとしない。 
	その時その人の精神は死んでいると言えるだろう。 
	その精神の死から生還するためには次の目標を打ち立てる(=言語化する)必要がある。 
	それができたなら、またそれに向かって生きはじめるだろう。 
			Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/ PR | 
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