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【2025/07/07 11:10 】 |
憎しみは愛を棲み家としている
相手に腹を立てる
相手を憎む、恨む
相手を完膚なきまでにやっつけてやりたい
そんな気持ちになることは誰でもあることだろう
これらは「攻撃心」と呼ばれ、その感情を「憎しみ」と呼ぶ
しかし、それは良くないことだとされる
できるだけ腹を立てず、良い人になることを求められる
対人関係をスムーズにするために
それが大人である
それが弁えた人だと言われる
 
どうしてこのような攻撃心や憎しみが湧き上がってくるのだろう?
本当に我慢しなければいけないことなのだろうか?
 
それは「愛」の裏返し
「愛」と「憎しみ」は表裏一体
愛すればこそ憎しみも倍増する
愛と憎しみはナルシシズムの構造の中から生まれる
 
自分の理想像を相手の中に見た時、それは「愛」の対象となる
自分のなりたい姿を見出した時、それは自分そのものとなる
これを同一視、同一化と言う
対象が子どもであれば、自分の夢を子どもに託すだろう
同性であれば、憧れの人となり真似をするだろう
異性であれば恋愛の対象となり、一気に惚れ込むだろう
アイドルであればファンとなり追っかけをするだろう
これらは、鏡に映った自分の分身である
 
ところが
何らかの理由で、自分の理想を担う対象でなくなった時
自分の思うようにならなかった場合
一転して「憎しみ」の対象となる
「こんなにもアナタの為にしているのに!」
「こんなにも自分を犠牲にして、アナタに尽しているのに!」
「こんなにもアナタを愛しているのに!!」
「どうして分かってくれないの!」
「分かってくれないのなら、いっそこの手で殺してしまいたい」
 
愛が深ければ深いほど、憎しみはより一層深くなる
つまり、憎しみの対象は愛の対象でもある
このように憎しみは愛を棲み家としている
愛の無いところに憎しみは無い
 
シニフィアン研究所のHPはこちら  http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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【2011/08/05 07:48 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
マーキングー母が触れた部分は性感帯
母が乳幼児の世話をする
その時には当然肌に触れる
授乳、お風呂、着替え、おむつを替える、抱っこ、おんぶなどなど
母の手(素肌)がその中心となる
それをマーキングという
 
母のマーキングは心地良いはずである(必ずしもそうと言い切れないこともある)
その時の心地良さ=快が、後にその快を反復することを求める
母が触れることが快であるとマーキングされたなら
その快を何度でもあらゆる場面で再現したいと人は求めるようだ
つまり
触れることが快だとマーキングされることによって、皮膚感覚が発達するとも言える
 
逆に言えば
マーキングが何らかの事情でない場合、もしくは希薄な場合
あるいは、極端に不快だった場合
皮膚感覚が鈍麻する可能性が大きい
暑さ、寒さなどの感覚が感じられない
あるいは、人に触れられることが
「くすぐったい」「嫌」「気持ち悪い」「痛い」
と感じる傾向があるようだ
 
中には
まったく感じないという人もいる
人の様子を見ても、「暑そうだ」とか「寒そうだ」とか
「疲れているようだ」「しんどそうだ」なども読み取れないという
 
自分が体験している=マーキングされているから
人を見ても想像できる
痛さも暑さ寒さも体の不調も想像できる
それがないと見ても想像できないし
自分も鈍麻しているから怪我をしても痛さもさほど感じないらしい
ファッション感覚でタトゥーが流行したが
これも皮膚感覚が鈍麻している=マーキングがないことの証だと言えるだろう
 
蛇足になるが(豊富なデータがあるわけではないが)
産道の圧迫感を体験していなかったり、触れてもらう体験が希薄な場合、
その圧迫感を強く感じるようなこと
例えば、スキューバダイビングスカイダイビングなどを好む
そっと触れるよりも、ぎゅっと強く抱き締められたいと思う
また、大人の性行為においてもこういった傾向が強くなることが予測できる
 
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
【2011/07/28 08:14 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
我々は言語に隷属している
文字や言葉は、単に線や音の集合であり、
その形や音の種類によって笑ったり、怒ったり、泣いたりする。
「素敵ですね」と言われれば、その人の顔はパッと明るく笑顔となるだろう。
反対に
「あんたなんか大嫌いよ」と言われたなら、きっと怒ったり、悲しい表情になることだろう。
しかし、なぜ笑ったり、喜んだり、怒ったり、泣いたりするのだろう?
音の、文字の集合なのに。
 
それは、その音や文字の集合に、それぞれ共通の意味を見出しているからだ。
そしてその意味にそれぞれ感情や行動として反応していることによる。 
つまり、その共通の意味を共有しない所では、
それらは単なる線や音の集積と化す。
たとえば、日本人には普段馴染みがないであろうサンスクリット文字やアラビア文字
また、速記文字や方言などもその範疇に入るだろう。
それらは、その意味する内容が理解できないからだ。
 
それゆえ、意味を共有しない文字や音にはほどんど風景の一部のように通り過ぎるだろう。
人は意味の中に感情や行動を規定されていると言える。
言い換えれば
人は線や音の集合の中に、自らの意味を文字や声として切り出しているということになる。
また、
自分が自由に使っているつもりの言語は実は誕生以来ひたすら全面的に受け入れてきたものである。
つまり、言語は誕生以前からある体系であり、人はこの中に参入するしかない存在であった。
語られ、それを取り込むことでしか他者の中に参加できなかった。
他者なる言語体系とある種の契約をしたようなものである。
そして、今もその受身的であることに変わりはない。
これをラカンは「言語に隷属している」と書いている。
 
シニフィアン研究所のHPはこちら  http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
【2011/07/26 08:09 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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