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「これは花です」と言う時
「これは花であり、私ではありません」ということ。
つまり、私と花は同一ではなく、別のものであることを意味する。
「あなた」というと
私とあなたは別の人間ですということである。
当たり前だと思うが、これが案外そうでもないようだ。
私とあなたは別の人間だと思っているのなら
あなたが「悲しい」と言って泣いたとしても
それは「あなたが悲しい」のであって、私は悲しいわけではない。
なのに、時にはどうしてもらい泣きするのだろうか?
腹が立ったと怒りをあらわにしている人の話を聞いて
どうして同じように腹を立てることがあるのだろう?
それは、その瞬間、私の心があなたの心と一体になったからではないだろうか?
つまり、私とあなたが融合して一つになり、私もあなたもなくなった状態を意味する。
私はあなたの悲しみと一体化し、怒りと一体化する。
人はこのようにいとも簡単に対象と一体化する。
また、対象だけではなく、過去の自分自身とも一体化する。
その一体化の中にとどまり、抜け出せなくなったとき、
悩み、苦しみ、迷いなどが生まれてくる。
この時、誰かに語ることによって少しは楽になるのは
語ること=言語化することによって、一体化の状態から抜け出す(切断される)ことになるからだ。
ただ、一時的に抜け出す(切断される)だけにすぎない。
それは他者と思っているが、実は自分の姿を見い出している他我に過ぎないから。
語ることによって何がきっかけか分かるかもしれないが
なぜそのことに一体化するのか、抜け出せないのかはまず分からないことが多い。
とまれ、
言語はこのように私と対象を切断する機能がある。
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人は言葉によって、笑ったり、喜んだり、泣いたり怒ったりしている。
ある人には何でもない言葉が、ある人には感動させたり、泣かせたりもする。
これはどうしてだろう?
それはその言葉が持つ意味に反応しているからだと言える。
例えば
「あなたは素敵ですね」という言葉がある。
これをAさんい言ったら、「まあ 嬉しいわ!」と答えた。
次にBさんに同じ言葉を言ったら、「何か下心があるんじゃないの?」と言った。
また、Cさんに言ったら、「そんな言葉を言ったって私はあなたの思い通りにはならないわよ!」と怒った。
同じ言葉なのに、どうしてこんなにも反応が違うのだろう?
Aさんは、その言葉を素直に受け取り、素直に嬉しいと言ったのだろう。
Bさんは、「人は嘘をつく」と思う傾向が強いのかもしれない。
Cさんは、人に対して疑いの気持ちが強く、
相手を誉めれば自分の思うとおりになると考えているのかもしれない。
このように人は同じ言葉でも受け取り方が違う。
これは、その言葉をめぐってどのような体験をしてきたか?
つまり、どのような意味付けを持ってきたかに左右されると言える。
同じ言葉であっても、受け取る人の意味付けによって全く違う反応が返ってくる。
自分が考えている意味付けと、それを受け取る相手の意味付けが違う場合、
(大抵の場合、ほとんど同じ意味付けの人はいないと言っても過言ではないが)
時には誤解が生じ、喧嘩や仲違いにまで発展する。
「コミュニケーションはすべて誤解から始まる」とラカンは書いている。
これを忘れず、時には
「私はこういう意味付けで、この言葉を使っているけど、間違いなくそのように受け取ってくれている?」
と確認することも必要だと感じている。
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人は欠如を自覚するからこそ、その欠如を埋めたいと思う。
欠如を欠如と認識しなかったならば、埋めたいとは思わないだろう。
当たり前だと思うが、案外そうではないように感じる。
欠如だと自覚するには、まず欠如していない状態(満たされた状態)を知っていることが前提となる。
例えば、
お腹が空いたときにたっぷり食べるからこそ、お腹が一杯になり、空腹感が満たされたと感じる。
満腹感を味わったからこそ、次の空腹の時も食べたいと思うのである。
お腹が空いたのに、食べるものがなかったり、食べてはいけないと禁止されていたとしたら
やがては空腹感も感じなくなってしまうだろう。
一度くらいでは空腹感は麻痺しないだろうが、それが普通のことになっていたらどうだろうか?
自らの空腹感が自覚できなくなり、お腹が空いているのかどうかさえ分からなくなる。
そうすると、お腹が空いたという欠如を感じなくなる。
つまり、食べたいという欲望を持たないことになる。
このように、食だけでなく、愛情など無形のものも含めて、
欲しいときに欲しいものを手に入れて満足した経験があるからこそ
それがなくなったとき、あるいはないとき、それが欠如していると自覚し
それを満たしたいと欲望する。
つまり、欠如を欠如と自覚しない限り欲望は湧いてこない。
逆に言えば、欲望がない人は、欠如を自覚していないと言える。
いつでも、なんでも身の回りにある場合、人は何も欲望しないだろう。
満たされていないと感じるからこそ、欲しいと思い、それを手にするための方法を考え、行動する。
ゆえに、欲望がない人は欠如を作ればよいとも言えるだろう。
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アリバイ証明とは、そこには居なかったという不在証明でもある。
例えば
TVのサスペンスドラマなどで刑事が
「あなたは○月○日○時頃、どこにいらっしゃいましたか?」と質問する場面がある。
その時「△△に居ました」と言うと
「△△以外にはいなかった」という不在証明でもある。
これと同じように、語る=言語化することは
もう自分はそこには居ないという不在証明だとも言える。
喜びや驚き、また辛さ、悲しさ、恐怖の最中に居るとき、
人は「嬉しい」「驚いた」「辛い」「悲しい」「怖い」とは語れない。
なぜなら、そのものと一体化(同一化)しているから。
自らが喜びや驚き、辛さ、悲しさ、怖さそのものであるから。
ある感情にまるごと呑み込まれた時、人はその感情そのものとなるがゆえに
それを言語化することは不可能となる。
それらの状態から離れて見る視点をもって初めて、自分の状態を
「嬉しい」「驚いた」「辛い」「悲しい」「怖い」と語れるようになる。
この感情そのものの自分と、その自分を見ているもう一人の自分という観点を持たない限り
人は自分がどういう状態であるかを語ること(言語化すること)はできない。
言い方をかえると
語るということは「語る自分」と「語られる自分」に分裂しているとも言える。
「悲しいと語る自分」と「悲しみの最中に居る自分」とは分裂している。
ゆえに、
語るということはもうそこにはいないという不在証明ということになる。
Φ シニフィアン研究所のhpはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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人は欠如を自覚するからこそ、その欠如を埋めたいと思う。
欠如を欠如と認識しなかったならば、埋めたいとは思わないだろう。
当たり前だと思うが、案外そうではないように感じる。
欠如だと自覚するには、まず欠如していない状態(満たされた状態)を知っていることが前提となる。
例えば、
お腹が空いたときにたっぷり食べるからこそ、お腹が一杯になり、空腹感が満たされたと感じる。
満腹感を味わったからこそ、次の空腹の時も食べたいと思うのである。
お腹が空いたのに、食べるものがなかったり、食べてはいけないと禁止されていたとしたら
やがては空腹感も感じなくなってしまうだろう。
一度くらいでは空腹感は麻痺しないだろうが、それが普通のことになっていたらどうだろうか?
自らの空腹感が自覚できなくなり、お腹が空いているのかどうかさえ分からなくなる。
そうすると、お腹が空いたという欠如を感じなくなる。
つまり、食べたいという欲望を持たないことになる。
このように、食だけでなく、愛情など無形のものも含めて、
欲しいときに欲しいものを手に入れて満足した経験があるからこそ
それがなくなったとき、あるいはないとき、それが欠如していると自覚し
それを満たしたいと欲望する。
つまり、欠如を欠如と自覚しない限り欲望は湧いてこない。
逆に言えば、欲望がない人は、欠如を自覚していないと言える。
いつでも、なんでも身の回りにある場合、人は何も欲望しないだろう。
満たされていないと感じるからこそ、欲しいと思い、それを手にするための方法を考え、行動する。
ゆえに、欲望がない人は欠如を作ればよいとも言えるだろう。
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