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住む家にこだわるのは、誰しも当たり前のことかもしれない
理想の家、間取り、部屋にはこだわりたいと思うのも頷ける
その住んでいる家を見ると、その人がその時求めているものが見える
家、部屋はその人の精神世界を現したものだから
明るい部屋を好む人は、暗い部屋や家に住んでいたのだろう
広い部屋を求める人は、狭い部屋に住んでいた
一人部屋ではなく、共有の部屋に住みたがる人は孤独を味わった人だろう
精神的に監禁(束縛)された人は開放感溢れる部屋にこだわるだろう
自分の部屋がなかった人は、早く一人暮らしをしたいと思うかもしれない
木の家にこだわる人は、人の温もりを求めている人
コンクリートがむき出しの家に住む人は、寒々した環境にいたのかもしれない
あるいは、母のおなかの中が冷たかった?
自分には無かったものは、手に入れたいと思う
逆に、馴染みがあるものは、何故か癒されると感じるものでもある
たとえ快適だと感じていなかったとしても
このように、住む家、部屋一つにもその人の想いが表現されているとしたら
自分が何を求めているか迷ったとき
生き方に自信を失くしたとき
≪自分が何にこだわっているか?≫
≪自分が一番好きなもの(こと)は何か?≫
そのように問いかけてみよう
きっと
そこに自分の欲望が見つかる糸口があるに違いない
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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休みの日は親にとって仕事が増える日だ
長い夏休みは子どもがうるさくて嫌だ
早く学校や塾へ行って欲しい
早く大きくなって手がかからなくなって欲しい
そう語るお母さんは多い
確かに、小さい子どもが側にいると色々言ってくる
「お母さん、おかあさん」としょっちゅう声をかけてくる
今年も暑いし、節電だし、尚更暑く感じる
子どもに振り回されるのはごめんだと叫びたくなるのも頷ける
子どもにとって「お母さん」は世界で一番大好きな対象
それは以前にも書いた
それ以外に、少し考えてみよう
「子どもは本当にウルサイのか?」と
たいていの場合
子どもが母に要求していることは大したことは無い
つまり、
大して時間がかかることを要求していない場合が多いのではないだろうか?
「お母さん、ジュースちょうだい」
「お母さん、一緒に遊ぼう」
「お母さん、コレ見て」etc
要求が出た時に、すぐにその通りに動けばそれで済む
なのに、
「ちょっと待って」
「後でね」
「今、忙しいから」
と言ってしまう
子どもはお母さんが何かをしている時に要求を出す
もっと言えば
お母さんが一番忙しい時に限って要求する
だから
「もう本当にうるさいんだから!」
と言いたくなるのだ
本当は子どもはうるさくない
しかし、
お母さんは、自分がしたいことを中断させられるから邪魔だと感じる
邪魔されるから「ウルサイ子どもだ」と感じてしまうのだ
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「私の欲望は他者の欲望である」
と、ラカンは言った
母が子どもを欲望する
可愛い、愛おしいという想いをかけて授乳し、
お風呂に入れ、おんぶし、抱っこする
まだ言葉も理解しないと解っていても声をかける
「○○ちゃん、はいおっぱいよ」
「○○ちゃん、おねむなの?」
「○○ちゃん、お散歩しましょうねえ」
などなど
母の熱い想いに導かれて
赤ちゃんは成長する
たとえ母の勝手な思いを押し付けたとしても
それに答えようとするものである
やがて、この母の欲望に基づく世話行動を通して
「母に必要とされている」
あるいは
「どうでも良い存在なんだ」
とのメッセージを刻印する
まだ言語を理解しない時代であっても
情動と皮膚感覚を通して刻印される
以後、その刻印の上に経験値を積み重ねることとなる
母が子どもを世話せず、放置したり、他の誰かに預けっぱなしの場合
子どもは「母にとって、どうでもよい存在」
「母に見捨てられた」
「母は自分を嫌っている」
と感じるだろう
子どもにとって母は世界そのものである
幼少であればあるほど、その度合いは当然高い
ゆえに
母から適切な世話をしてもらえない=母に見捨てられた=生きる意味は無い
と、体と情動に刻印したとしてもおかしくはない
母に必要とされていると思える体験
母に愛されていると感じられる体験
何があっても、母だけは解ってくれる
母だけは自分を見捨てない
これらの体験が
この世に生きている意味があると思える基礎となる
母が「○○のような人になって欲しい」と欲望すること
そして
それを言葉と態度で伝えること
その母の欲望を我が欲望として子どもは生きてゆく
つまり、
子どもは大好きな母の期待に応えようとするのだ
母が子どもを見捨てたとしても
子どもは決して母を見捨てることはない
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
子育てについてはこちらへ http://signifiant-lab.com/raise/
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男の話はすぐ終わる
女の話はなぜ長いのか?
長電話は、時には数時間から半日にも及ぶ
話始めたら永遠に終わりそうにない
話があちこちに飛んで収束しない
男に言わせれば
「しょうもない話ばかりしてる」
「何をそんなに話すことがあるのか?」
「結局、何を言いたいのか分からん」
「くだらんことはよく覚えてる」
「話始めたら、いつ終わるか分からん」
「回りくどい言い方ばかりで、早く結論を言え!」
などなど
「女は分からん!」
「理解不能!」
「言い出したら人の言う事は聞かん」
「うるさいから放っておけ」
なぜだろう???
女の話には一つの要(ファルス)がないのだ
話の途中でも平気で全く違う話題へとシフトする
「あ、そうそう・・・」
「ところでね・・・」
「それで思い出したけど・・・」
などと、勝手に新しい話を展開してしまう
まだ先ほどの話の結論がついてないのに
終わらないまま、次の話が接木される
これが
永遠に終わらない、何を言いたいのか不鮮明になるパターンだ
一度、このゲームがスタートすると止められない
なぜ?
それは
≪女は瞬間を生きられる生き物だから、言語がなくても生きていける≫
と言えないだろうか?
その典型の一つは「母になること」
胎内に新しい生命が宿った瞬間から言語がなくても母になる
胎内では意識する、しないに関わらずその成長は進行する
そこには言語を必要としない生命の神秘が展開している世界
あるいは
言語では表現できない何かが展開している世界
もっと言えば、言語外の世界
その瞬間瞬間の世界を生きられる特定の時
母になる女は言語にできない体感、実感の時を生きられる
生命の神秘の世界を味わうことができる
だから声高に叫べるのだ
「言葉じゃない!」
「男には分からん!」
その前に、きっと男は無力だろう
母になることは選択肢の一つ
全ての女が母になる訳ではない
しかし、それを含み持った存在であるがゆえに
収束しない話も許容できるのかもしれない
だから
男からすると、女に言語は通じないと思うのだろう
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誕生と共に社会に登録される
国民の一人として
地域の一人として
家族の一員として
両親の子どもの一人として
一人の人間として
一人の男、もしくは女としてetc
最初は登録される
自らがそこに参加することは不可能である
そして
それらを当たり前のように生きているが
幾度となく問いかけられる時がやって来る
あるいは
常に人は問いかけ続けられているのかもしれない
まずは
この世に生きるに値する存在であると、自ら登録すること
次に
人間として登録すること
そして
男である、女であると性別を登録すること
例えば
社会という「1」、
人間という「1」、
男、もしくは女という「1」
私という「1」は
「1」という意味では等価
私という「1」が増えても減っても、社会という「1」は変わらない
それでも
社会、人間、男or女という「1」の中に
私という「1」を自ら登録する
最初の登録には参加できなかった
だからこそ
自らが再度登録しなおす
そのとき
どのように登録するかは自らの手の中にある
我々は生かされている存在である
しかし自ら生きていく存在でもあるのだ
他者から規定されたものを
自らが規定しなおすこと
それは、自らの人生を引き受けることでもある
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