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人は相手と何らかの話をしていると、対話しているかのように思っている。
対話とは言葉のキャッチボールと言われるが、
相手のボールをよく見て、正面で受け止める。
投げる方は、できるだけ相手が受け止めやすい所へ投げる。
そうすればお互いに楽である。
ところが実際はどうだろうか?
投げる方は、その時の気分次第で気ままに投げ出す。
ストレートもあれば、シュート、カーブ、果てはとんでもない魔球も生まれる。
こうなったら、受け止める方も最後にはあきらめて、受け取ることをやめてしまうだろう。
受け止めるフリだけして、うなずくだけとなることだろう。
このように話す状態をある人は【垂れ流し】と言った。
適切な言葉だと感じた。
他によくあるのは、命令、指示、伝達。
「あなたの為を思って言ってるのよ!」
この物言いに乗せて、自分の思うとおりに相手を操作しようとするのも命令指示。
あるいは、「こうしなさい、ああしなさい」と、分かりやすい命令指示もある。
伝達は、
「明日、○○があるから」「○○へ行くから」「○○しておいてね」など、
あらかじめ決まっている事柄を伝えるだけで、相談は一切無い。
忙しいと言う名のもとに、言葉は飛び交っているが対話はない。
対話は、食事と同じようなものだと思える。
自分は口から吐き出し、相手に投げる。
相手からきたものは目や耳や肌から摂取し、それを咀嚼し消化し、吸収して血肉とする。
そして、不要なものはすみやかに体外に排出する。
ここには、選択性がある。
自分にとって快か不快か?
どんなに素晴らしいものでも、関心がなかったり、嫌いだと感じたなら
人は決して取り入れない。
いわゆる「スルーする、聞き流す」のである。
【垂れ流し】に対して【受け流し】とでも言える。
受け入れられないものは嘔吐や下痢で表現されるだろう。
つまり、人は自分の好きなモノは取り入れるが、嫌いなモノは取り入れない。
これではとても対話とは言えない。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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人は言葉によって、笑ったり、喜んだり、泣いたり怒ったりしている。
ある人には何でもない言葉が、ある人には感動させたり、泣かせたりもする。
これはどうしてだろう?
それはその言葉が持つ意味に反応しているからだと言える。
例えば
「あなたは素敵ですね」という言葉がある。
これをAさんい言ったら、「まあ 嬉しいわ!」と答えた。
次にBさんに同じ言葉を言ったら、「何か下心があるんじゃないの?」と言った。
また、Cさんに言ったら、「そんな言葉を言ったって私はあなたの思い通りにはならないわよ!」と怒った。
同じ言葉なのに、どうしてこんなにも反応が違うのだろう?
Aさんは、その言葉を素直に受け取り、素直に嬉しいと言ったのだろう。
Bさんは、「人は嘘をつく」と思う傾向が強いのかもしれない。
Cさんは、人に対して疑いの気持ちが強く、
相手を誉めれば自分の思うとおりになると考えているのかもしれない。
このように人は同じ言葉でも受け取り方が違う。
これは、その言葉をめぐってどのような体験をしてきたか?
つまり、どのような意味付けを持ってきたかに左右されると言える。
同じ言葉であっても、受け取る人の意味付けによって全く違う反応が返ってくる。
自分が考えている意味付けと、それを受け取る相手の意味付けが違う場合、
(大抵の場合、ほとんど同じ意味付けの人はいないと言っても過言ではないが)
時には誤解が生じ、喧嘩や仲違いにまで発展する。
「コミュニケーションはすべて誤解から始まる」とラカンは書いている。
これを忘れず、時には
「私はこういう意味付けで、この言葉を使っているけど、間違いなくそのように受け取ってくれている?」
と確認することも必要だと感じている。
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人は欠如を自覚するからこそ、その欠如を埋めたいと思う。
欠如を欠如と認識しなかったならば、埋めたいとは思わないだろう。
当たり前だと思うが、案外そうではないように感じる。
欠如だと自覚するには、まず欠如していない状態(満たされた状態)を知っていることが前提となる。
例えば、
お腹が空いたときにたっぷり食べるからこそ、お腹が一杯になり、空腹感が満たされたと感じる。
満腹感を味わったからこそ、次の空腹の時も食べたいと思うのである。
お腹が空いたのに、食べるものがなかったり、食べてはいけないと禁止されていたとしたら
やがては空腹感も感じなくなってしまうだろう。
一度くらいでは空腹感は麻痺しないだろうが、それが普通のことになっていたらどうだろうか?
自らの空腹感が自覚できなくなり、お腹が空いているのかどうかさえ分からなくなる。
そうすると、お腹が空いたという欠如を感じなくなる。
つまり、食べたいという欲望を持たないことになる。
このように、食だけでなく、愛情など無形のものも含めて、
欲しいときに欲しいものを手に入れて満足した経験があるからこそ
それがなくなったとき、あるいはないとき、それが欠如していると自覚し
それを満たしたいと欲望する。
つまり、欠如を欠如と自覚しない限り欲望は湧いてこない。
逆に言えば、欲望がない人は、欠如を自覚していないと言える。
いつでも、なんでも身の回りにある場合、人は何も欲望しないだろう。
満たされていないと感じるからこそ、欲しいと思い、それを手にするための方法を考え、行動する。
ゆえに、欲望がない人は欠如を作ればよいとも言えるだろう。
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「自分の居場所がない」という人は
自分という存在を肯定してくれるただ一人の人が居なかったということ
自分の居場所があると思える人は
自分を肯定してくれるただ一人の人がいる
自分がある特定の誰かに必要とされている
自分がその人の心に存在している
そして、自分もその人を必要な人、大切な存在だと思えるということでもある
人はどうして自分を肯定してくれる他者を必要とするのだろうか?
それは、人が人となってゆく過程の中で、どうしても自分を映してくれる他者(鏡)を必要とするから
人は生きるに必要な衣食住があれば自然に人となってゆくのではない
体の成長に応じて心も成長してゆくのではない
心は適切な世話行動と他者からの語らいによって成長してゆくもの
人が人となってゆくには
「私は○○の人間です」と語れること
すなわちアイデンティティーを持って社会に参入するということでもある
自分はどんな人間か?
それを形成するためにはどうしても他者を必要とする
つまり「鏡」と必要とする(ラカン「鏡像段階」)
いわゆる姿形を映す鏡を見て「私ってこんな体型、顔形なんだ」と知ること
そしてもう一つ大切な鏡
それは他者から「あなたは○○な人ね」と語られること
この両方の鏡に映る姿を総合して(快感原則が作用する)
私って○○な人間だと思う(想像的同一視)
私は私だと言ったとしても
それを肯定してくれる人が皆無だったなら
独語の世界を脱せない
なぜなら言語は自己言及の不可能性を内包しているものだから
自分以外の他者が「それがあなたよ」と肯定してくれて初めて
自分は自分であると同定できる
他者からの承認があって人は自分を○○な自分だと認められる
最初期にはこのような他者承認がどうしても必要となる
また
自分とはどういう人間であるかを知るためには、ただ一人の人を必要とする
複数は必要としない
なぜなら複数になれば、複数の映し方(語り)があり、一定しないから逆に混乱の元になる
このようにして肯定してくれるただ一人の人を持てなかったなら
その人は後に社会の中で否定に出会ったとき
どこにも自分を見いだせずに立ち止まってしまうだろう
「自分とは?」の問いかけに答えられなくなるだろう
自分の居場所とは、ある自分固有の空間的な場所があるだけでなく
何よりも自分を肯定してくれるただ一人の人(場所)があると思えることである。
自分の居場所がないと感じている人は
やがて「この世から消えてしまいたい」と 思い
失踪してしまう可能性が出てくるだろう
お問い合わせはシニフィアン研究所 090-1951-1978 むかい あいまでどうぞ |
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夏休みも後半
長い夏休みは子どもがうるさくて嫌だ
早く学校や塾へ行って欲しい
早く大きくなって手がかからなくなって欲しい
そう語るお母さんは多い
確かに、小さい子どもが側にいると色々言ってくる
「お母さん、おかあさん」としょっちゅう声をかけてくる
今年も暑いし、節電だし、尚更暑く感じる
子どもに振り回されるのはごめんだと叫びたくなるのも頷ける
子どもにとって「お母さん」は世界で一番大好きな対象
それは以前にも書いた
それ以外に、少し考えてみよう
「子どもは本当にウルサイのか?」と
たいていの場合
子どもが母に要求していることは大したことは無い
つまり、
大して時間がかかることを要求していない場合が多いのではないだろうか?
「お母さん、ジュースちょうだい」
「お母さん、一緒に遊ぼう」
「お母さん、コレ見て」etc
要求が出た時に、すぐにその通りに動けばそれで済む
なのに、
「ちょっと待って」
「後でね」
「今、忙しいから」
と言ってしまう
子どもはお母さんが何かをしている時に要求を出す
もっと言えば
お母さんが一番忙しい時に限って要求する
だから
「もう本当にうるさいんだから!」
と言いたくなるのだ
本当は子どもはうるさくない
しかし、
お母さんは、自分がしたいことを中断させられるから邪魔だと感じる
邪魔されるから「ウルサイ子どもだ」と感じてしまうのだ
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