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「恋愛と結婚は違う」とよく言われてきた
恋愛はできても結婚はできない、しないという人がいる
では、付き合う異性がいないのか?というと案外そうでもない
異性の友達は沢山いるが、結婚となると・・・
異性とお付き合いはしても、なかなか結婚に繋がらない
永らく付き合ってる人はいるが特に結婚は考えていない
「あいつとはくされ縁だ」などと言う
周りから「いいかげんに結婚したらどうだ?」と言われたり
あるいは「そろそろ結婚しないとやばいよな、、、」
「このままでも別にいいんだけど」などと考えてはいる
逆に「結婚なんて邪魔くさい」
「必要なら一緒に住めばいいし、嫌になれば別れればいいし」
これでは結婚はできない
結婚しないのではなく、結婚できない
それでも結婚している人もいる
きっかけは様々だろうが
「親がうるさいから仕方なく」
「勢いでした」
「成り行きで」
「結婚と言うものを一度はしてみたかった」
最近の傾向としては
「妊娠したから」というのが多いようだ
これは
二人の決断力がないから「妊娠」という手段に頼ったと言える
なぜ?
一つには≪自らが決断するということが学習できていない≫
幼少期から周りから決められて生きてきた
自分で考えてやってみる体験が少ない
もしやったとしても、周りからとやかく言われ、失敗は許されない
失敗でもしようものなら非難轟々
こうして、いつしか他者から決められたことに従うという素地が出来上がってしまった
自ら決断し、その結果に責任を持つ覚悟が学習できていないのだ
とにもかくにも
結婚は決断力がないとできない
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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「かゆみ」には湿疹やアトピー性皮膚炎、乾燥や虫さされなど外的要因によるものなど様々ある。
「かゆみは愛の対象から理解されたいという強い欲求である。」
と書いたのは、ディディエ・アンジューである。
その前に「幼年時代、母親や家族からの優しく、温かい、確固とした、安心させるような、意味深い接触に出会えなかった場合」とも書いている。
このような状況で育てられた人は、たぶん皆無と言える。
だとしたら、ほとんどの人は何らかの「かゆみ」という手段を使って
自分の欲求を表現する可能性は大きいと言えるだろう。
確かに、臨床の中で「皮膚はクライアントの語らいである」と感じることも多々ある。
「かゆみ」の場所が同じであっても、その語らいはクライアント固有のものである。
かゆみによって、肌に触れて欲しい、注目して欲しいとの欲求を訴えていることもあるし、
自ら血が出るまで掻きむしることによって、自分の領域を意識する場合もある。
痛みとその痕跡によって生きていることの実感を得る人もいる。
嫌悪する人の声を聞いたとたん、全身がかゆくなってしまった人もいる。
好きなアーティストの音楽をiPodで聴くことを止めた途端、耳の後ろがかゆくなり掻きむしったという人もいる。
それは心地良い声によって自らが至福の時を過ごすことを中断することによって
無意識にかゆみとなって身体症状化となって現われた。
その証拠に、皮膚科のどんな薬も効かず、分析の場で言語化した途端、かゆみは消えた。
その人にとっての「愛の対象」から理解されたいという強い欲求が、
皮膚という身体の一部を使って「かゆみ」という症状を作り出すのなら、
その「かゆみ」の意味するものをその人固有の言語に置き換えたら、消失するのは確かだと言えるだろう。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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アリバイ証明とは、そこには居なかったという不在証明でもある。
例えば
TVのサスペンスドラマなどで刑事が
「あなたは○月○日○時頃、どこにいらっしゃいましたか?」と質問する場面がある。
その時「△△に居ました」と言うと
「△△以外にはいなかった」という不在証明でもある。
これと同じように、語る=言語化することは
もう自分はそこには居ないという不在証明だとも言える。
喜びや驚き、また辛さ、悲しさ、恐怖の最中に居るとき、
人は「嬉しい」「驚いた」「辛い」「悲しい」「怖い」とは語れない。
なぜなら、そのものと一体化(同一化)しているから。
自らが喜びや驚き、辛さ、悲しさ、怖さそのものであるから。
ある感情にまるごと呑み込まれた時、人はその感情そのものとなるがゆえに
それを言語化することは不可能となる。
それらの状態から離れて見る視点をもって初めて、自分の状態を
「嬉しい」「驚いた」「辛い」「悲しい」「怖い」と語れるようになる。
この感情そのものの自分と、その自分を見ているもう一人の自分という観点を持たない限り
人は自分がどういう状態であるかを語ること(言語化すること)はできない。
言い方をかえると
語るということは「語る自分」と「語られる自分」に分裂しているとも言える。
「悲しいと語る自分」と「悲しみの最中に居る自分」とは分裂している。
ゆえに、
語るということはもうそこにはいないという不在証明ということになる。
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社会参入するとは、徒党を組んでおしゃべりをする仲間の一員になることではない。
ある組織や団体に所属することをもって、社会参入しているとは言いがたい。
社会という象徴的なものが支配する中に、自らも象徴的なものとして参加することである。
象徴的なものを介して他者を認め、
自らも他者と共に象徴的な存在として社会の一員として認められることである。
つまり、「どう自己規定しているか」
「何のためにそこにいるか(それをしているか)に答えられること」である。
ある集団や組織は、ある理念や目的という象徴的なものの下に集う関係性をもち、機能している。
そこにある理念や目的に賛同しなくなったなら、帰属する意味を見いだせなくなる。
その時、問いかけが生まれることになる。
「どうしてここにいなければならないのか?」
「どうしてここにいる意味があるのだろうか?」
この問いかけに、
それなりの答えや理由(内容は何であれ)が見いだせたならよいが
理由付けができなかったなら、人は立ち止まってそこから動けなくなってしまう。
社会は殆どすべてが象徴的なものに満ちている。
紙幣などはその代表である。
元々は「紙」であり、そこにある一定の模様や数字などが規約によって作られたものである。
それが想像できないような価値を帯びて流通し、人を動かし
時には戦争にまで発展することもありうる。
ところが、一度、何の価値もないとなったなら元の紙くず同然のものとなる。
そこに生きる人達が、そのものに象徴的な意味付けを認める限り
それなりの価値と意味付けを帯びて機能する。
つまり、「信用」と言われるもの。
世の中の象徴的なものを信じられなくなったら、人は生きられなくなるだろう。
何よりも人は象徴的な存在である。
その証左として、固有名詞として戸籍に登録される。
そして、その社会で象徴的な存在であると認知される。
自分を社会の中で象徴的な価値ある存在であると規定できるからこそ
他者も社会も自分にとってそれなりの価値があり、生きる意味があると規定できる。
自己規定できるからこそ意味を見いだせる。
社会が不完全で不満だらけだとしても
自らも象徴的なものの一部として参加してゆける。
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人は母の子宮から生み出される。
子宮という楽園から追放されるとも言える。
その一方で、母からすれば出産は、胎内で一体だったものを失うことでもある。
自分の一部分を失うことと等価である。
では、その我が子はどのようにして胎内化したのだろうか?
処女膜を喪失することから始まる数々の喪失体験から。
受け入れることはそのまま喪失体験に繋がる。
一般的には、喪失体験をしない限りわが子を宿すことは不可能である。
我が子は受け入れ、失った体験の結果として得たものという言い方もできる。
もちろん、喪失体験=わが子とは限らないが。体内に宿ったものを重ねる月日と共に動きを感じ、我が子という実感と一体感を深める。
しかし、それも1年とは続かない。
産み出さなければならない。
母となることは、体内にある空洞を一時期満たしてくれたものを喪失することでもある。
それゆえ、一度は失ったものを目にし、産声を聞き、抱きしめて肌に触れ、匂いをかぐ。
自分の命と引き換えるかもしれない可能性を孕んだ中で、痛みを伴って手にしたものを知る。
我が一部であり、自分を必要とする「寄る辺なき存在」
何があっても離したくない、私のものだと思ったとしてもうなずけるだろう。
このようにして、手塩にかけて育てたとしても
やがて言葉を覚え、「イヤ」と言い始める時期が来る。
自分の思うとおりにならない子に喪失感を感じ、次の子どもを妊娠する母もいる。
そして、母よりも遊ぶ友達を優先し、やがて成長と共に母に反抗する。
反発と反抗だけでなく、踏み台にしてゆく。
母は、大した人間ではないと見なされ、なめられ、時にはバカにされ、捨てせりふを吐かれるようになる。
そうして、母を捨て去り社会へと飛び立ってゆく。
ここでも母は喪失体験をする。
ある種、子どもに捨てられるのである。
ここで母を捨てるためには父の機能が必要となる。(これについては別途記述する予定)
何度でも女性は母は失いつづける。
乱暴な物言いかもしれないが、穴が男性よりも一つ多いがために女性は喪失することを常とする。
それゆえに、アンコール(もっともっと)が止まらないと言えるだろう。
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