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【2017/10/20 01:24 】 |
自我は鎧(ヨロイ)

自分と思っている私は一般的には「自我」と呼ばれる。
そして、たいていはそれが私だと信じて疑わない。
ましてや、その自我が他者から視覚的に取り入れ、あるいは語られたイメージの総合したものだとは
考えもしないことだろう。
ラカンはそれらを「鏡像段階」として理論化した。
「<私>の機能を構成するものとしての鏡像段階」の中でこう書いている。
 
鏡像段階とは、そのなかで内的な心拍が、不足から先取りへと突き進んでゆくひとつのドラマである。・・・・これらの幻想は、身体の寸断されたイメージから、そのまとまりからわたしたちが整形外科的と呼んでいるひとつの形態へ、さらに最終的には、ひとつの疎外的同一性の結果としての鎧へと移行してゆく。】
 
鏡の中に映し出された虚像を自分だと思う。そして、他者が「これがあなたよ」と語られることによって
確かなものとしてゆく。
複数の他者が全く違う姿を映し出したとしたらどうだろう?
どれが一体本当の私なのか?
他者は口々に勝手なことを語るだろう。
それらを総合して「これが私だ」と言えたならその人はアイデンティティーを持てる。
しかし、複数の語らいの中でまとめあげられなかったならきっと混乱するだろう。
ゆえに、最初期(乳幼児期)にはただ一人の人がその鏡となる必要性が生じる。
その基盤の上に、玉ねぎの皮を重ねるように構築、改変をしてゆく。
 
とまれ、自我なるものは非常に危ういものとしてあると言えるだろう。
自我を強化するのではなく、時々に理想とする虚像に同一化してゆくことによって
更新しつづけることでしか生き延びてゆくすべはないように感じる。
この更新を諦めたとき、その鎧はより強固で扉も分厚いものとなるだろう。
更新し続けるなら表皮は常に柔らかく潤いや弾力性を持ち、新たな皮膚を表皮にするために
いともたやすく剥がれ落ちることだろう。
 
他者から(おもに両親から)着せられた鎧は、ややもすると本人にとっては快適なものではないかもしれない。
ある人は周りから「我慢」という皮膚を着せられ、それを自分だと信じこまされてきた。
そして、自分でもそれが自分だと思ってきた。
しかし、ある時その皮膚を「掻きむしる」それも血が出るまで掻きむしることによって
その皮膚が他者から着せられた皮膚だと気づくこととなった。
これは私の皮膚ではない。自らの皮膚で生きたいと叫んでいた。
子どもを守る「保護服」のつもりで着せた親の想いは、その子どもの身には合わず
いつしか逆に自由を奪いがんじがらめにする「拘束服」となっていた。
それを脱ぎ捨てれば大変なことになるよと脅されてていたから、打ち破り脱ぎ捨てる勇気が出なかった。
その葛藤が皮膚を掻きむしるという行為となっていたのだった。
 
それに気づき、脱ぎ捨てる勇気を持つと覚悟したときから
その人は血が出るまで掻きむしることはしなくなった。
鎧は自分の意志で自由に着脱できることを知ったからである。

お問い合わせは シニフィアン研究所まで http://signifiant-lab.com/
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【2011/09/05 19:11 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
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