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【2024/05/18 19:59 】 |
275)万が一は実現することを目指している

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「万が一は実現することを目指している」 について書きたいと思います。

ここでは、
『万が一は実現することを目指している』
ということを、保険を例に、精神分析の観点から書いてみたいと思います。
(*保険加入の必要性の有無や、保険の是非について述べているのではありません)

大抵の人は『万が一の時の安心のために』と考えて(勧められて)保険に加入することでしょう。

ある人との雑談の中で、保険に話が及んだ時のことです。
万が一の時のために、ある保険に加入していたそうですが、
そのおかげで保険金が下りて助かったとのこと。
(ここまでは、ありふれた話でしょう)
その次に、その人が言いました。
≪実は私、〇〇(病名)保険に加入しているんだけど、かなり以前から掛けているから絶対元を取らなきゃ損だわ。≫


それを聞いて、びっくりしました。
この人はもうすでに自分の病気を決めていると思ったからです。
そして、その人に聞きました。
「それって、もう将来の自分の病気を今から決めてるってこと?」
「そりゃそうよ、あれだけ掛けてるんだから、病気になるなら保険金がもらえる病気にならないと意味がないじゃない」

もちろん、先のことは誰にも解りません。
健康に関することをテーマにすることは、慎重であるべきことだと思います。
ですが、この人の語らいを聞いている限り、
「その人の気持ちは、その病気に向かっている」
つまり
『万が一は実現することを目指している』と考えられるのではないでしょうか。

このように、
「意識しないところで、意図しない方向へ向かっている可能性があるもかもしれない。」
ということを書きたかったのです。


何気ない一言の中に、自分でも気づかないものが隠れている。
精神分析は、それらを明らかにする一つの方法だと思います。


シニフィアン研究所では、
精神分析を通して、自ら気付くための面談や講座などを用意しています。
興味を持たれた方は
シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/をご覧ください。

私と精神分析http://agency-inc.com/analysis6/も参照ください。

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【2012/09/16 17:41 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
273)孫は可愛いのはなぜか―自己の連続性

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「孫は可愛いのはなぜか―自己の連続性」 について書きたいと思います。

「わが子も可愛いが、孫の可愛さはまた格別だ」
との声をよく耳にするけれど、なぜなのかと考えてみました。
かつて「孫」という歌が一世を風靡したようです。
それは、記憶のない自分の空白の時間を埋めてくれるものだから、ではないでしょうか。

私たちは、自らの記憶をたどってゆくと、
3歳以前の記憶はよほどのことがない限り、途中で途切れてしまう。
ましてや、誕生から1歳2歳などはほぼ思い出せないでしょう。
親や周りの人の語らいやビデオや写真などの記憶媒体に頼るしかない。
それらを見ても、実感として感じられないかもしれません。

そんな時、目の前に「孫」と世話する母親を見る機会が現れるとします。
一歩離れた場所から、それらを観察する機会を持つことになるのです。
その光景が、「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれる人の心にどのように映るでしょうか?
それらを想像してみたいと思います。

自分では生命さえも維持することは不可能に近い、寄る辺なき存在。
そして、その存在をかいがいしく世話する母親=わが娘(嫁)
そんな光景を目の当たりにし、
『自分も、わが母からあのような眼差しで、世話をしてもらったに違いない』
『自分も、あのようにぐずったり、笑ったりしていたに違いない』
『あのように誰かの世話を受けなければ、片時も生きてゆけなかった自分であった』etc
そこに自分自身の姿を重ねてみることでしょう。


孫のように世話してもらったかもしれない、
孫のようには世話してもらえなかったかもしれない。
いずれにしても、そこには
寄る辺なき存在の自分、世話を必須としていた自分が居る。

その時代が間違いなく自分にもあった、だから今の自分が存在していることだけは、間違いがない。
連続していることは疑いようがない事実としてある。
信じたい、間違いがない事実として受け入れたい。
だけど、自分の記憶は途切れてしまっている。
このようなジレンマとも呼べるものが根底にあるのではないでしょうか。
それがバネになって
今自分の目の前に居る血の繋がった「孫」を観ている。
その「孫」こそが、記憶にない自分の歴史を埋め、繋いでくれる。
このような視線が潜んでいるように思うのです。

だからこそ、わが子とは違った可愛さがひしひしと込み上げてくるのではないでしょうか。

誰もが、信じていることでしょう。
「自分は間違いなく連続した時間の中に生きている。」と。
ひょっとしたら、不連続な時を生きているかもしれない不安を感じているのかもしれません。
それを問いかけないように必死になっているのかもしれません。
逆に、「孫」が可愛いと思えるのは
この不安があるからなのかもしれません。

この不安が人を
「生きるとはなにか」
「何のために生きているのか」
との問いに導くのかもしれません。

「孫」は可愛いと言われることから
このようなことを考えてみました。
興味を持たれた方はシニフィアン研究所のHPをご覧ください。http://signifiant-lab.com/
思春期には特にこのような問いかけをするようです。
思春期の悩みも参照ください。http://signifiant-lab.com/eatingdisorder/

【2012/09/12 11:02 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
267)居場所―ただ聴いて欲しい

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「居場所―ただ聴いて欲しい」 について書きたいと思います。

日々、クライアントと向き合っていますが、
その中で、クライアントからよく聞く言葉があります。
今日は、その一つを紹介します。
それが「ただ聴いて欲しい」です。
 

考えてみれば、
あちこちで「評価される」ことが多いのでしょう。
学校、塾はもちろんのこと、習い事、職場でも
常にだれかと比べられ、評価されることが当たり前になっています。
競争社会にどっぷり浸かっているのですから、当然かもしれません。
せめて、家の中でだけは・・・・
と、思うけれど、それも叶わない。
家の中も外も同じ、常に人からの評価が待っている。

そんなとき、
だれかが、黙って聴いてくれる。
評価することもなく
良い悪い、正誤も言わず、ダメとも言わず
ただただ、「そうか、そうか、そうなんだ」と聴いてくれる。
そんな人が居てほしい
そんな場所が欲しい。
このように、だれもが心のどこかで叫んでいるのではないでしょうか。

あるクライアントが言いました。
≪かつてこんなに長い時間、自分が喋りっぱなしだったことはなかった。いつも誰かに邪魔されたり、さえぎられたりして、
最後まで
聴いてもらったことはなかった。≫
また、
一年半の間、毎週身の上話を涙と共に語り続けた人もいました。
それらの大半を語り終えた時、
その女性を見てびっくりしました。
『こんなにも色が白くて、綺麗な人だったのか』と。
それまでは、背中を丸めてうつむき、暗い顔をしていました。

それが
まるで別人のようになったのです。
正直、驚きと共に感動しました。
人は、心の中のヘドロを吐き出した時、こんなにも変容し、輝くものであるのだと!

フランスの精神分析医である、ジャック・ラカンは言いました。
【身体は文字が刻まれた辞書のようなものである。】
まさしく、彼女は
暗く、重く、苦しく、筆舌しがたい過去を身体に刻み込んでいたのです。
それが『語る=言葉にする』ことによって、
身体に刻まれた文字(言語)が剥がれ落ちたのでしょう。

だれもが、その人固有の文字を刻んでいると考え、
それを分析家に語ることで、自らが明らかにし、知っていく方法が精神分析です。
そして、必要とあらば、
その言語を、自分の好きなように書き換えることも可能です。

前述の彼女は
「苦行僧」→「修行僧」→「普通人」へと書き換えました。

ただただ、語り続けることで気付き、書き換えたのです。
このように、
誰かに語り続けたい、聴いてもらいたい、
と、大半の人が叫んでいると思うのです。


「あるがままの自分」が裁かれることもなく、批判されることなく、
指導されることなく、他者に受け入れられること。
それが癒しであり、自己を知ることであり、変容へと繋がってゆくことだと思うのです。

話しても仕方がない。
どうせ言っても・・・・・
と、思ってあきらめていませんか。
聴いてくれる人は必ずいます。

シニフィアン研究所のHPも参照ください。http://signifiant-lab.com/
オールOK子育て法http://signifiant-lab.com/raise/
思春期の悩みhttp://signifiant-lab.com/eatingdisorder/
恋愛と結婚ー仕事と生きがいhttp://signifiant-lab.com/woman/

【2012/08/30 09:43 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
256)自傷、自虐行為の向こうにあるもの=罪責感

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「罪責感」について書きたいと思います

罪責感とは、精神分析では
監視する自我とみられる自我の間に生まれる緊張感のことを言います。
この緊張感は、親から禁止され、それを取り入れたところから生まれるとされています。
ちょっと難しいかもしれませんが、
「自責の念」とか、「罪意識」とか言われるものと考えていただけばよいと思います。

罪責感がないと法やルールを無視し、社会の中で犯罪を犯し、
罪責感が強すぎると、うつや自傷・自虐行為、自殺へと自分を追い込んでしまう可能性があります。
一方で罪責感は、道徳心や自制心などを培う基にもなると言われます。
適度な罪責感をもっていることは、
社会で生活する上で、必要なアイテムだと言えるでしょう。

例えば、
災害や事件、事故に遭遇した時
「何で自分だけ助かったのか」
「どうして何もできなかったのか」
「自分が身代わりになればよかった」
などと、自分を責めることでしょう。

助けられなかった自分、何もできなかった自分を責める気持ちです。
その自責の念にさいなまれて、たまらなくなる。
周りの人から「あなたのせいじゃないよ、仕方がなかったんだ」と言われても、
自分が自分を許せないのです。
これは、人として当然な反応かもしれません。
ところが、中には
この自責の念から開放されず、一歩も進めない人がいます。

「時(計)が止まってしまった」
と語ります。

また
「幸せになろうとすると、なぜか不幸がやってくる」
「私は、幸せになってはいけないんです」
などと語る人がいます。
この人たちも何らかの「罪責感」を持っている可能性があります。

これらの場合は、
なぜそんなにも自分を許せないのか?
なぜ時が止まったままなのか?
どのような「罪責感」を持っているのか?
それを知る必要があるでしょう。
それを知れば、その罪責感から開放され、
適切に書き換えることが可能です。


それには、精神分析が必要となるでしょう。
必要な時間をかけて、
悲しい(不幸な)自分と向き合うことで
悲しみ(不幸)は悲しい(不幸な)出来事として
その人の心の中で整理されることでしょう。
そうすれば、
ゆっくり前を向いて歩み始められるのです。

シニフィアン研究所では、精神分析という対話療法を中心に
自分と向き合うお手伝いをしています。

各種相談会、勉強会、養成講座も開催しています。
こちらをどうぞhttp://signifiant-lab.com/
7日(火)から9日(木)までは和歌山、大阪を中心に関西へ出張します。
詳しくはスケジュールをご覧下さい。http://signifiant-lab.com/#161

【2012/08/04 11:14 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
222)父の日

研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析で心身の悩み相談をしています。

明日は「父の日」です。
そこで、「父」とはどのような存在か?
父の役割とは何か?
父とは言葉(言語)としての存在だということを書きたいと思います。

「父の日」を検索してみました。
 
1910年にアメリカ・ワシントン州の『J.B.ドット夫人』が教会の牧師にお願いして、亡き父の誕生月6月に父の日礼拝をしてもらったことが切っ掛け。 当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まったといわれています。
この「父に感謝する日」はアメリカ中に広がり、1916年に全国的に認知されるようになりました。1926年には「ナショナル ファーザーズ・デイ コミッテ ィ」がニューヨークで結成され、1972年にアメリカの国民の休日となりました。
日本では1950年頃から広まり始め、一般的な行事となったのは1980年代です。
(引用「きのとや」http://www.kinotoya.com/beans/beans_01.html
 
初めて知りました。
なるほど、、、
 
父の存在を強く意識する機会は、母と比べて少ない人が多いのではないでしょうか?
それだけ、身近に感じる機会が少ないのでしょう。
自営業など、比較的共有する時間が多い場合は別として、
やはり身の回りの世話をしてくれる「母」の方が
圧倒的に接触する時間が多いのも、その一因でしょう。
ということは
父を知る機会は非常に少ないというのが、一般的でしょう。
 
ある人が言いました。
「父親の印象と云えば、休みの日にゴロゴロして、テレビを見て居眠りしてる姿しかない」
ある人は
「休みの日は、いつも一緒に遊んでくれたり、どこかへ連れて行ってくれた」
これらは、現実の父を通してのイメージです。
これも父を知る上で、大切なことでしょう。
では、
仕事の関係で、父とのかかわりの時間が少ない人は
「いつも居なかった」以外、
父親のイメージはないのでしょうか?
多分、そんなことはないでしょう。
ここが大切だと言いたいところなのです。
それは
「母が語る父」です。
子どもの年齢が低ければ低いほど、その影響は顕著なようです。
現実の父がどうであるか、よりも
大好きな母がどのように語ったか?
それが、子どもの心に「父のイメージ」を創り上げるようです。
 
いかがでしょうか?
お父さんのイメージを浮かべてみてください。
そのイメージは何が基になっていますか?
 
父の存在、父のイメージは
母や身近な人が父について語った言葉ではありませんか?
時には父自身が語った言葉ではないでしょうか?
父は母とは違うようです。
母は現実に何をしてくれたか?が印象深く
父は何を語ったか?どのように語られたか?が印象深いと言えないでしょうか?
ここから
父とは「語る父」ということがクローズアップされます。
 
現実に何をしたかよりも、何を語ったか?
父は子どもにとって、最初に出会う社会(=法・秩序)の代表だといわれます。
ここからは次回に書いていくことにしましょう。
興味をもたれた方は
シニフィアン研究所のサブサイト「オールOK子育て法」を参照ください。
参考ブログもどうぞ
【2012/06/16 10:55 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
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