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【2025/07/12 22:13 】 |
264)子どもに納得できる選択を与えよう

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「子どもに納得できる選択を与えよう」 について書きたいと思います。

「選択」という言葉にどのようなイメージを持たれているでしょうか。
辞書には
「選ぶこと。適当なものをえらびだすこと。良いものをとり、悪いものを捨てること。」
とありますが、

納得のできる選択がどれほどできているでしょうか。
そのためには、選択する前提として、
二つ以上の選べるものが、等価なものとしてあることが必要だと思うのです。

何を言いたいかというと
選ぶ人の心のままに(自由に)選べることが大切だということです。
母子関係で考えてみましょう。

以前、こんな光景に出くわしたことがあります。

小学生の子どもがお母さんに言っています。
どうやら子どもは習い事へ行きたくないようです。
そこでの母子のやり取りです。

子ども「今日は行きたくない、休みたい」
母  「じゃあ、この間欲しいと言ってたの買わないよ、それでもいいの?」
子ども「それは嫌だ、買って欲しい」
母  「だったら、ちゃんと言うこと聞かないとだめでしょ」
子ども「そんなの嫌だあ、でも行きたくない」
母  「じゃあ好きにしなさい、自分でよく考えなさい」
     (しばらくの沈黙)
子ども「じゃあ 行く・・・」

どうでしょうか。
「行く」と「行かない」の選択肢の間で、子どもは確かに「行く」を選択しました。
果たして子どもは納得して、行くことを選択したと言えるでしょうか。
「行く」と「行かない」が
子どもにとって、等価なものとして目の前にあったでしょうか。
「行く」=欲しいものを買ってもらえる
「行かない」=欲しいものを買ってもらえない
という、別の選択へと置き換えられ、そこでの選択を迫られている、と言えないでしょうか。
そうすると、
「行く」か「行かないか」の選択をしているようで、
まったく別の選択
「買ってもらえる」か「買ってもらえない」にすり替えられてしまっている。
それも子どもにとって、圧倒的に優劣がついてしまう選択しかありません。
これは果たして(納得できる)「選択」と言えるでしょうか。

このように、私たち親の思いのままに
子どもの選択権を他のものにすり替えてしまっている。
あるいは、
親の思いに沿うように、子どもをコントロールしてしまってる。
このように考えられるのではないでしょうか。

ですから、
子どもは自分の意志で選択したようで、納得できない、
喜んで自分の選択を受け入れられないのではないでしょうか。
その上に、まだオマケがつく場合があります。
「自分で決めたことでしょう、お母さんは行けとは言ってないよ」と。

これはたぶん、特別な親子ではないと思います。
意識する、しないに関わらず、大半の親がしていることでは?
このような環境の中で、子どもは育っていくのです。
そんな子どもに納得のできる、自由な選択は無い、といえるでしょう。
それを、もう一度リセットし、納得のできる選択ができる体験が必要です。
なぜなら、だれれかにコントロールされた「選択」は
必ず、後にストレスとなり、あるキッカケによって噴出する可能性が高いからです。

それが、たとえば青少年の非行や問題行動だと思います。
不登校や引きこもり、暴力、いじめ、虐待、殺人などではないでしょうか。

リセットする方法が「オールOK」子育て法(心育て直し法)です。

詳しくは精神分析的子育て法「オールOK」を参照ください。http://signifiant-lab.com/raise/
お問い合わせはこちら(シニフィアン研究所)です。http://signifiant-lab.com/

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【2012/08/23 10:03 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
233)飽きっぽい、長続きしないのはなぜ?
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
 
今日は「飽きっぽい・長続きしない」について書きたいと思います。
 
6月29日付のヤフーニュースで見つけた記事です。
タイトルは「なぜ、日本の研究者は人型ロボットを作るのか」
その中で、早稲田大学の高西淳夫教授が答えていた。
「人型ロボット研究の最大の問題、あるいは宿命というのは、『人という明確な目標がある』ということです。(中略)ロボットに人のまねをさせようとすればするほど、永遠にゴールに行きつけないと痛感します。そのために、やめられなくなってしまいます。」
 
「永遠にゴールに行きつけない」「そのために、やめられなくなってしまいます」
これらの言葉を中心に、考えてみたいと思います。
少し変形して、
「永遠に手に入らないから、やめられない(興味を持ち続ける)」としてみましょう。
とすると、逆にいうと
「すぐに手に入れば、やめてしまう(興味を持たなくなる)」となります。
つまり
人は、簡単に手に入るものは、すぐにやめてしまいますが、
永遠に手に入らないものは、やめられない(興味を持ち続ける)
と言えることになります。
 
少し古い表現になりますが、
「高嶺の花」という言葉があります。
ご存知でしょうか?
≪遠くから見るだけで、手に入れることのできないもの、あこがれるだけで、自分にはほど遠いもののたとえ≫ 
のことです。
今風に言うと「追っかけ」が近いでしょうか。
「大好き」と言いますが、
「永遠に手に入らない理想の姿」と思っているのではないでしょうか?
 
ここから
すぐにやめてしまう人、飽きっぽい人は
「永遠に手に入らないものを持っていない」ということになるのではないでしょうか?
長続きしないのは、性格ではなくて
「やめられない」と思えるものがないからではないでしょうか?
言葉を変えると
「興味をもつものがない」→「手に入らないものがない」→「手に入れたいものがない」
 
では、なぜ手に入れたいものがないのでしょうか?
次回は、このことについて考えてみたいと思います。
 
シニフィアン研究所では、このような方の相談もしています。
こちらを参照ください。http://signifiant-lab.com/
 
【2012/06/30 10:15 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
「生々しいもの」と「おぞましいもの」
「訳わかんな~い」
という言葉をよく耳にする
ほとんどが、若い女性

表現の仕方はともかく
「訳がわからないもの」とは?
『なんと言ってよいかわからないもの』
つまり
言葉で表現できないもの
理由付けできないもの』である

理由付けできないものは、言語で説明できないものでもある
これらは
どのように心の中に意味づけされているだろうか?
それは
気持ち悪い】である
この【気持ち悪い】と感じるものは
その人の中では、まだ一度も言語化されていないものである

一度も言語化されていないものは、時空を超えて永遠に生き続ける
遠い過去のことであっても、まるで昨日のことのように思い出す
その代表が「トラウマ(心的外傷)」であろう
それらは
生々しいもの】【おぞましいもの】として
その人の心の中で、永遠に生き続けている
そして、時にはフラッシュバックしてくる

そうすれば、過去のものとなるのだろうか?
それは
言語化すること=言語で説明すること
そうすれば
【生々しいもの】【おぞましいもの】は過去のものとなり
インデックスをつけられ、他の記憶の片鱗となるだろう
精神分析はその「言語化」する方法である

興味をもたれた方は
シニフィアン研究所 トラウマ(心的外傷)を参照ください
http://signifiant-lab.com/trauma/
【2012/04/24 22:44 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
新年度のスタート
新年度のスタートの日
公私共に、そのスタートを切る日
新たに「自己規定」して前進する日

時に乗ること
新たにスタートするには、区切ることが必須
古い自分に区切りをつけて
新しい自分を規定する

周りに合わせていると遅くなる
日付に合わせること
今日考えていたら、一日遅れている
明日のことは、今日の終わりに決めて、明日からスタート
今日の自分の姿を見て、明日の自分を描く
その繰り返し
今に立ち、明日に向かって歩む
常に「前へ、前へ!」
そんなスタートをしましたか?

シニフィアン研究所では
精神分析という鏡があります。
今の姿を映してみませんか?
詳しくは
http://signifiant-lab.com/までどうぞ
【2012/04/01 10:43 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
女性化する男たち
男性がどんどん女性化している
そんな気がするのはメディアの影響?
否、それだけではない
周りを見回しても、日常茶飯事に目にする

そもそも「」は身体的性別とは別に、後天的に獲得するもの
それをジェンダーとも呼ぶ
その是非はともかく
どうしてこんなにも女性化する傾向にあるのだろう?

そもそも「女性性」とは?
一口で定義するのは難しい
「女性は存在しない」
「性関係はない」
との言説もあるくらいだから

とりあえず
外見的にも、精神的的にも「女性っぽい」と多数が見なす
と考えてみることにしよう
どうしてそのようになるのだろうか?

それは
多くの女性も男性も共に【優しい人=母なるイメージ(母性)で包み込んでくれる人】
【甘えられる人】
そんな人を求めているからではないだろうか?
「甘えさせてくれる」
「優しく包み込んでくれる」
「何でも許してくれる」
「自分の思うとおりにしてくれる」
これは「母性」

「父性」ではない
父性は何よりも【言語化できること】が必須
そして、統率力、指導力なども持っていること
それらによって導き守ることが「父の優しさ」だろう
マッチョなど、見かけはさほど重要ではない

こうして考えてみると
多くの女性が男性に求めているのは
【母性の優しさ】だと考えられる
どこにも【父性の優しさ】など見られない
だから男性は父性を求められないことになる
そこにあるのは、収入と子ども

ゆえに
男性はどんどん女性化の方向に向かって進むのではないだろうか?
女性たちよ、もっと父性を持った男性を求めよう!!
そして
女性たちよ、もっと賢明であれ!!
そのように叫びたくなる

シニフィアン研究所の『女たちよ賢明であれ(随時更新中)』も参照ください
【2012/03/24 21:12 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
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