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【2024/04/30 21:18 】 |
否定は全てを無化する
「ダメ!」
と否定することは
否定したそのものが無くなる(=無化する)

例えば
「悪いことする手はダメ!」
と言えば、その手は無いものとなる
「悪い足ね、そんな足はいらない」
と言えば、その足は無くなる
「ウルサイ口だな、黙れ!」
と言ったなら、しゃべれなくなる
「あんたなんか要らない」
と冗談にでも言ったなら、その人は存在しないことになる

ましてや、影響力の大きい人から言われたなら、なおさらである
あっても無いに等しい
居ても居ないに等しい
否定することは無化することと等価となる

冗談のつもりで否定していないだろうか?
しつけと言う名の下に、否定していないだろうか?

お金が無いから手にできないのではなく
掴む手が無化されているから、手に入れられないのである
語る口がないから、欲しいと言えないのだ

それらは
否定されたから、あっても機能しない

あっても機能しないのなら
肯定すれば良い
褒めれば良い
承認・賞賛すれば、必ず動き出す

無化されて機能していないものはありませんか?
再度機能するようにしませんか?
お問い合わせは
シニフィアン研究所<むかい あい>までどうぞ
http://signifiant-lab.com/
PR
【2012/03/09 18:18 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
信じること
人を信じるとは?
文字通り、その人の言うことを信じること

行動を見て、言う事とすることが一致しているから信じる
一致していないから信じられない
というかもしれない

それは
人の言うことを信じたけれど、裏切られたことがあるからだろう
裏切られたことがなければ
その人の行動を見なくても、言ったことを信じるだろう
つまり
言行一致を見ないと信じられないという人は
かつて、誰かに裏切られたことがあったのではないだろうか?

人を信じることとは
その人の言うことを信じること
つまり
言葉(言語)を信じることでもある

言語を信じるからこそ
自分もその言語を使って、人と対峙する
そして
その人が語った言語を信じる
その人を信じるのだ

言語を信じられない人は
人に裏切られ、傷つき
『もう二度と人の言うことを信じない』
と心に決めた人だろう
それほど
裏切られ続けてきたのだろう

だから
人を信じない、言語を信じようとしない

「金は人を裏切らない」
「ペットは裏切らない」
と言うのだろう

人は言語を使って騙すこともある
言語一つのために「命」を賭けることもある
言語一つのために、人は死ねる
だけど
言語一つで、生き返ることもある
言語一つで、元気が湧いてくることがある
言語一つのために、立ち上がれる
言語一つで、どのような苦難をも乗り越えられるのだ

それほどの力を持っている
ならば
その言語の力を生かそう!
言語を疑うよりも、信じて生きよう!!
人を信じよう!!


シニフィアン研究所はこちら http://signifiant-lab.com/
【2012/03/07 18:25 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
自分の価値ー女子高生のぞき部屋を一斉摘発
女子高生のぞき部屋を一斉摘発】
このようなニュースを見た

そのことの是非は言うまでもないことだが
レポーターが街の女子高生にしたインタビューが気になった

レポーター
『あなたはこのニュースを聞いてどう思いますか?』
返答
・女子高生A
『そんなことまでしてお金が欲しいのかな!』
・女子高生B
『別に抵抗ない、自分に価値がある(=自己価値感)んだなって、アハハ・・・』

当然、気になったのは女子高生B
冗談で言ったのかもしれないし、
インタビューされたノリだったのかもしれない
しかし
たとえそうだったとしても
「のぞかれることでお金をもらえる」
そのことで「自分に価値がある(=自己価値感)」
と考えることに引っかかったのだ

男性に下着を見せることでお金がもらえる=自分に価値がある
逆に考えれば
このようなことにしか、自分の価値を見出せないのだろうか?
との疑問を抱いたのだ

自己価値感とは
自分は生きるに値する人間であると思えること
男性に下着を見せることで、
「自分は生きるに値する人間である」
と意味付けるということになる

自己価値感」は
自己肯定感」と「自信」と共に
【自己愛の3大構成要素】である

自己愛
1)他者から愛されているという自信
2)自分が他者を愛することが他者からも喜ばれるという確信
3)このようなエロス的交流をその一致を経験しうるものだという希望
4)これらが、現実の経験としての裏付けを持っている
5)基本的信頼によるアイデンティティー(自我同一性)
6)他者と自分自身に対する信頼を抱き続けて生きる
7)能動性と相互性への信頼を、社会へと拡大できる
このような時間と体験の下に培われてゆくものだと言われている

この観点から言うなら
この女子高生Bの【自己愛】は
非常に貧弱で低いと考えられる

この女子高生Bだけが特別ではない
ほとんどすべてての子どもや大人までが
自己愛の傷つきと修復」を求めている気がする
それを
改めて痛感させられるニュースだった

自己愛を高めることに興味をもたれた方は
シニフィアン研究所のHPを参照ください
近日中に、新たな項目「トラウマ(心的外傷)」をアップしてゆく予定です
【2012/02/23 17:38 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
「分かって欲しい」と「伝えたい」
誰かに、自分の想いや考えを分かって欲しい
誰かに、自分の想いや考えを伝えたい
ある人に、理解して欲しいと願う
これらは、誰しも経験があることだろう

では
「自分の想いを分かって欲しい」

「自分の想いを伝えたい」
とは同じだろうか?違うだろうか?

もし、違うとしたら
どこがどのように違うのだろうか?

「分かって欲しい」
これは、相手に分かってもらうことを意図している
つまり
相手の良い反応を期待している度合いが高い
とすると
相手の反応の如何によって
自分の反応が左右される可能性が高い

「伝えたい」の場合は
伝える事がその目的であって
その結果、
相手がどのような反応するかは二の次となるだろう

つまり
「分かって欲しい」は相手に理解を求める気持ちを含み
「伝えたい」は相手に理解を求める気持ちを含まない
と言える

「分かって欲しい」
この意識が強い場合、
相手の反応に一喜一憂する、あるいは怒りを覚えるかもしれない
相手が主導権を握っているとも言える
「伝えたい」
この意識でいる場合、
相手の反応に自分の感情が左右される可能性は低いと言える
主導権は自分の側にあるとも言える

どちらの想いで相手に話しかけているだろうか?
これらの言葉を使い分けているだろうか?

ご意見・ご質問は
シニフィアン研究所の迎意 愛(むかいあい)までどうぞ

http://signifiant-lab.com/
【2012/02/14 00:01 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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