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人は欠如を自覚するからこそ、その欠如を埋めたいと思う。
欠如を欠如と認識しなかったならば、埋めたいとは思わないだろう。
当たり前だと思うが、案外そうではないように感じる。
欠如だと自覚するには、まず欠如していない状態(満たされた状態)を知っていることが前提となる。
例えば、
お腹が空いたときにたっぷり食べるからこそ、お腹が一杯になり、空腹感が満たされたと感じる。
満腹感を味わったからこそ、次の空腹の時も食べたいと思うのである。
お腹が空いたのに、食べるものがなかったり、食べてはいけないと禁止されていたとしたら
やがては空腹感も感じなくなってしまうだろう。
一度くらいでは空腹感は麻痺しないだろうが、それが普通のことになっていたらどうだろうか?
自らの空腹感が自覚できなくなり、お腹が空いているのかどうかさえ分からなくなる。
そうすると、お腹が空いたという欠如を感じなくなる。
つまり、食べたいという欲望を持たないことになる。
このように、食だけでなく、愛情など無形のものも含めて、
欲しいときに欲しいものを手に入れて満足した経験があるからこそ
それがなくなったとき、あるいはないとき、それが欠如していると自覚し
それを満たしたいと欲望する。
つまり、欠如を欠如と自覚しない限り欲望は湧いてこない。
逆に言えば、欲望がない人は、欠如を自覚していないと言える。
いつでも、なんでも身の回りにある場合、人は何も欲望しないだろう。
満たされていないと感じるからこそ、欲しいと思い、それを手にするための方法を考え、行動する。
ゆえに、欲望がない人は欠如を作ればよいとも言えるだろう。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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