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【2025/09/19 09:31 】 |
「認めること」と「責めること」とは違う

あなたが原因で不都合が起こったとき
あなたはどうするだろうか?

「それは私が悪いんだ」
「私は何て事をしたんだろう、私の責任だ」
「ごめんなさい、私が悪いんです」etc
たいていは謝るだろう

素直に「自分が原因であることを認めること」と
「自分で自分を責めること」とは違う

自分で自分を責めるのは
どこかに自己防衛が潜んではいないだろうか?
悪いのは自分だ
と、自分で自分を責めるのは
相手から責められて、傷つくのを避けるためではないだろか?

相手から指摘される前に
自ら「私が悪いんです」と自分を責める事で
相手が「いや そんなことないよ、あなたが悪いんじゃないよ」
と、言ってもらうためではないのだろうか?

相手から責められて傷つくくらいなら
先に、自分が自分を傷つける方が傷は浅い
そんな自己防衛の気持ちが潜んでいる場合がある

何か失敗や、問題が起こったら
まず先に謝る、自分が悪いと言う場合には
この自己防衛の気持ちが働いている可能性が高い

意識的にする場合と、無意識的にしてしまう場合がある

そちらにしても
現実を直視し、吟味することが必要
その結果、原因が自分にあるならば
素直にその非を認めよう
そうすれば
速やかに問題解決するだろうし
同じ失敗は繰り返す可能性は低くなるだろう

あなたは直ぐに謝っていませんか?
自分の責任だと自責の念に捕らわれていませんか?

シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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【2012/03/11 21:56 】 | 子育て | 有り難いご意見(0)
暴れるのは言葉が通じないから
思春期の少年少女たちが暴れる
物を壊したり
暴言を吐いたり
時には人に暴力を加えたりする

いけない事だとは多分知っているはず
なのになぜ?

思春期は体の成長と、
精神的な成長のバランスが巧くコントロールできにくい時期
進路や将来への夢や
自分への問いかけを求められる時期でもある
肉体的にも大人へと激的な変貌を遂げる
そんな性衝動をも適切に処理することを求められる
疾風怒濤の時期だと言われる

暴れるのは、思春期の人達だけではない
3歳児だってそうだし
それ以外の年齢の人にもある

なぜ?
一つには
うまく言葉に表せない
この気持ちをどのように表現したら良いのかワカラナイ
突き上げてくる感情や衝動
それらに言葉が追いつかない場合
行動で表現してしまうことになる

また一つには
言葉で表現しているのに
相手がそれを理解してくれない
相手が理解しようとしてくれない
自分の意見を押し付けようとして、聞いてくれない
聞くふりをするだけ
何度も何度も言葉で伝えようとするのだけれど
届かない

それで、イライラして
ついには暴力という手段に訴えてしまう

それらが習慣化してしまって=諦めてしまって
暴力という手段に固定化してしまう

他にも
暴力行為には
「目立ちたい」という気持ちも潜んでいる場合がある

いずれにしても
その暴力には彼らなりの意味付けがある
つまり
言いたいこと、伝えたい事がある
一つのメッセージだと言えよう

そのメッセージをしっかり聴くこと
その暴力で何を言おうとしているのか?
それを聴く方法がある
それを知れば、きっと聴こえてくるだろう
そのメッセージが!
 
思春期やこどもの問題でお悩みの方
お問い合わせはシニフィアン研究所まで
http://signifiant-lab.com/
【2012/03/10 20:58 】 | 子育て | 有り難いご意見(0)
否定は全てを無化する
「ダメ!」
と否定することは
否定したそのものが無くなる(=無化する)

例えば
「悪いことする手はダメ!」
と言えば、その手は無いものとなる
「悪い足ね、そんな足はいらない」
と言えば、その足は無くなる
「ウルサイ口だな、黙れ!」
と言ったなら、しゃべれなくなる
「あんたなんか要らない」
と冗談にでも言ったなら、その人は存在しないことになる

ましてや、影響力の大きい人から言われたなら、なおさらである
あっても無いに等しい
居ても居ないに等しい
否定することは無化することと等価となる

冗談のつもりで否定していないだろうか?
しつけと言う名の下に、否定していないだろうか?

お金が無いから手にできないのではなく
掴む手が無化されているから、手に入れられないのである
語る口がないから、欲しいと言えないのだ

それらは
否定されたから、あっても機能しない

あっても機能しないのなら
肯定すれば良い
褒めれば良い
承認・賞賛すれば、必ず動き出す

無化されて機能していないものはありませんか?
再度機能するようにしませんか?
お問い合わせは
シニフィアン研究所<むかい あい>までどうぞ
http://signifiant-lab.com/
【2012/03/09 18:18 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
信じること
人を信じるとは?
文字通り、その人の言うことを信じること

行動を見て、言う事とすることが一致しているから信じる
一致していないから信じられない
というかもしれない

それは
人の言うことを信じたけれど、裏切られたことがあるからだろう
裏切られたことがなければ
その人の行動を見なくても、言ったことを信じるだろう
つまり
言行一致を見ないと信じられないという人は
かつて、誰かに裏切られたことがあったのではないだろうか?

人を信じることとは
その人の言うことを信じること
つまり
言葉(言語)を信じることでもある

言語を信じるからこそ
自分もその言語を使って、人と対峙する
そして
その人が語った言語を信じる
その人を信じるのだ

言語を信じられない人は
人に裏切られ、傷つき
『もう二度と人の言うことを信じない』
と心に決めた人だろう
それほど
裏切られ続けてきたのだろう

だから
人を信じない、言語を信じようとしない

「金は人を裏切らない」
「ペットは裏切らない」
と言うのだろう

人は言語を使って騙すこともある
言語一つのために「命」を賭けることもある
言語一つのために、人は死ねる
だけど
言語一つで、生き返ることもある
言語一つで、元気が湧いてくることがある
言語一つのために、立ち上がれる
言語一つで、どのような苦難をも乗り越えられるのだ

それほどの力を持っている
ならば
その言語の力を生かそう!
言語を疑うよりも、信じて生きよう!!
人を信じよう!!


シニフィアン研究所はこちら http://signifiant-lab.com/
【2012/03/07 18:25 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
『死』が刻印するもの
誰もがいつかは必ず行き着く『死』

それぞれに原因・理由があることだろう
それらの原因や理由はさておき
『死』が他者に与えるものは何か?
と問いかけてみよう

一つの例として
永遠に消えることのない刻印を残す
特に突然に、あるいは若くして死す場合には
その『死』そのものの刻印としてだけでなく
永遠に止まった時の姿のままで保存される
永遠に年をとらず
残された他者の心の中に刻印される

他者がどんなに厚い抱擁をしてくれたとしても
どんなに愛していると囁いてくれたとしても
それが永遠である保障はどこにもない
しかし
『死』は永遠に消えない刻印を
ある特定の人の心の中に刻み込む
そして
その人の心の世界では永遠に年をとらずに生き続ける

深い悲しみと
永遠に生身に触れることのできない事実
時空を超えて
まるで刺青のように消えない
痛みが消えたとしても
イメージとして焼きついている

そして
いつか
そのイメージに新たな「名前」をつけよう
自分固有の名前を!
そして、歩み始めよう
その名前が
共に刻む新たな歴史の時となり
動き始めることだろう


シニフィアン研究所<むかい あい>

http://signifiant-lab.com/trauma/
【2012/03/06 20:48 】 | 家族 | 有り難いご意見(0)
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