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共感して欲しいと叫んでいる
「共感する」とはどういうこと? 共感する=共に感じること 書いて字の如し 共に感じるってどうすること? 側にいて、同じものを見て、同じ感覚を感じ、味わい、時空を共有すること 「う^^ん」何となく分かる気がするけど、 実際にどうすること? 案外、分かっているようで、分からないようだ その人の側にいて、そこに留まること、心身ともに動かないこと よけいに分からなくなった? 具体的に 同じ言葉を反復すること 「今日は寒いね~」と言ったら「ほんと、寒いね~」と答えること 「これ美味しいね」と言ったら「ホント、美味しいね」と言うこと 「お花きれいね」と言ったら?? そう「このお花きれいね」と言うこと すごく簡単なこと この簡単なことが、案外難しいみたいだ 「今日は寒いね~」と言ったら「そんなの当たり前じゃない、冬なんだから」 「これ美味しいね」と言ったら「高かったんだから」 「そんなこと言ってないで早く食べなさい」 「お花きれいね」と言ったら「それより早くしなさい」 と言ってないだろうか? 時空を共有すること 溶け合うこと=融合すること=一体化すること 共感することは、そのものとの距離が0になることに等しい だから、人は共感してくれると心地よい だから、人は共感を求める もっと共感しよう! もっと共感してもらう体験を持とう! そうすれば きっと「一人じゃない」と感じられるから だから 共感は生きるエネルゲンとなる 共感体験をしたい方はこちらまでどうぞ シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/ PR |
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これは強迫神経症者の生きる世界だと言われる
「私は生きているのか?死んでいるのか?」 この問いかけの前にいる いつも「死」を巡っている もちろん肉体的な死を言っているのではない 精神的に生きているのか?死んでいるのか? この問いかけに疲れてしまっているのだ この問いかけから逃れる方法はないのか? そうだ! 生きているから「死」がやってくる だとしたら いっそ死なないためには生きなければ良いのだ そう 生きていなければ死ぬことなどないのだ 生きていると思うからこそ、死を考えてしまう 生きていないとしたら、もう死ぬことなど考えることもない こうして、生きることを止めてしまう そして、ある儀式に熱中することで時間を構造化する それを強迫観念や強迫行為と呼ぶ 「~ねばならない」 「~すべき」 この世界から離脱しない限り、そこから逃れられない |
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手に入れたものは、手放したくない
元からあったものでも、無くなることは寂しい ましてや、自分が欲しくて苦労の末に手に入れたものは 決して放したくないし、失いたくない 自分が特別欲しいと思っていないものでも 誰かが欲しいと求めたら、手放したくないと思うものである とかく人は、「失うこと」「手放すこと」に抵抗する 「失うこと」「手放すこと」は喪失に繋がるからだろう こだわりを持つことも同じ どうして、それほどまでに「喪失すること」に抵抗するのだろうか? 実は、失い、手放し、こだわる「もの自体」に喪失感を抱いているのではない その「もの」や人を通して、自分自身を喪失すると感じてしまうからではないだろうか? その代表が「形見」 その「もの自体」は、どこにでもある「もの」かもしれない しかし、その「もの」を通して、自分と誰か(何か)との関わりを想い出せさせる それを見たり、触れたり、聞いたりすると まるで、遠い昔にタイムスリップしたようになる その時、その人はその「もの」と共にあった時代(過去)を生きている だから、その「もの」を大切にし、決して失いたくないと思う それが無くては自分が居ないのと同じだと感じる だから、決して手放さないのである 過去の自分自身でもあるのだから 言い方を変えると その「もの」に捕らわれている だから手放せない、捨てられない だから、こだわる その人の時は、永遠にその時(過去)に留まっている 今を生きていない 精神は死んでいる そう言えないだろうか? 敢えてその「もの」を捨ててみよう 手放してみよう きっと「自由」を手にするでしょう お問い合わせはこちらまでどうぞ シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/ |
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自分で自分をコントロールすることを「自律」という
ところが、 「分かっているけど止められない」 「どこで止めていいのか分からない」 という人がいる 要因は様々考えられる その中で 「止めてもらった体験がない」場合が考えられる それはどういうことかと言うと 「受け止めてもらった体験」 「抱きとめてもらった体験」 つまり 「そうか よしよし」と、誰かに体を抱き止めてもらったことがあったり、 じっくり聞いてもらって 「嬉しい」「安心した」と、精神的に受け止めてもらった体験のことである これらの体験があった人は 皮膚を通し、精神的にもその触れている感触を実感するだろう その「触れてくれている」と感じる部分が 限界=境界 となる この限界=境界が自と他を分ける線や面ともなる つまり 「ここまで」と」区切る=そこで止める となるのだと思う 簡単に言うと 「止めてもらった体験」が自ら「止める」=自律に繋がる ということになる ゆえに 分かっていても止められない人 どこで止めてよいか分からない人は 止めてもらった体験がない と言えるだろう 自分をコントロールしたいと思ったなら 誰かに「受け止めでもらう体験」をすること そうすれば、 きっと自ら必要なときに止めることができるようになるだろう 止めたいけど止められない方は シニフィアン研究所までお問い合わせください スマートフォンでも見られます http://signifiant-lab.com/ |
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今や教育は数値化され、どのようにすれば効率よく反映されるか?
どのような方法を使えば、理想とされる数値近づけるか? これらを中心として編成されている その代表が「偏差値」であろう 遊びも予測され、期待される枠を持つなら それは「遊び」と言えるだろうか? 遊びは「創造性」を含むものではないだろうか? 創造性は閉じられたものではなく、開かれた際限のないもののはず 創っては壊してゆく、永遠に数値化されることを拒否するものでは? 人間は工業製品とは違う データや数値だけで評価できないし、一部にしか適用できないはず ある評価のための数値化も必要だろう しかし、 その数値は一部であって、全体ではない 数値が高いからといって優秀だとは言い切れないし 優秀な成績ではあっても優秀な人だとは限らない 車のハンドルに「遊び」があるように 文章に「行間」があるように 紙面に「余白」があるように 教育には「ムダ」が必要だろう ムダは無限の可能性を創造する「目に見えない場」 何があるか 何が起こるか 何が飛び出してくるか 何もないかもしれない この「不確定なもの」 この「未知なるもの」 この「予測不可能なもの」 これこそ「ムダ」に通じるものではないだろうか? これこそ教育の根底に流れる地下水脈ではないだろうか? この「ムダの集積」こそ教育に必須のものであり 今一番忘れかけているものではないだろうか? シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/ |
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