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生まれてしばらくの間は昼夜逆転するのが通常です。
日が経つにつれ、だんだん睡眠パターンが決まってきます。
また、医学的に何も問題がないにも関わらず、夜泣きが止まらない場合
以下のような事が考えられます。
1)お母さんに何か心配事や不満や不安なことがある場合
・夫婦間の問題がある(育児に協力してくれない、夫が単身赴任や長期出張でいない、浮気、借金など)
・親子間の葛藤や問題がある(嫁姑、自身親に対しての不満など)
・核家族で相談相手がいない
・近所つきあいでトラブルがある
・お母さん個人としての悩みがある
2)昼間、赤ちゃんにとっての刺激が多すぎることがある場合
・不連続な騒音など
3)お母さんの関心が希薄
・他の兄弟姉妹に関心があり赤ちゃんに向かない(兄弟姉妹の病気やけが、問題など)
・肉親に対する心配事がある
4)育児に対しての不安や葛藤
・お母さん自身の幼児期の葛藤の再燃
・過去にわが子を失った悲しい経験がある
5)お母さん自身が他者から注目されたい欲望がある
・夫の関心を自分に向けさせたい
・実母に解らせたい何かがある
他にもその要因となることが多々考えられますが、
赤ちゃんは誰よりも、我が母の精神状態をつぶさに映し出す傾向があるようです。
赤ちゃんの状態がそのまま育児をするお母さんの時々の心を反映しているといっても過言ではない
そう言えると感じます。
お母さんが安心して、日々を過ごせて幸せだと感じていたなら
赤ちゃんも安心
お母さんが不安になったら、赤ちゃんも不安を感じてしまう
それだけ母子の絆が強いと言えるのです
乱暴な言い方かもしれませんが、
「赤ちゃんが泣いているのは、お母さんが泣いているからだ」
と言えるのではないでしょうか?
育児で困っていることがある方は
シニフィアン研究所までお気軽に http://signifiant-lab.com/
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人は、母から生まれる。
他者が語らっている言語の中に生み落とされる。 自分を取り巻く周りの大人達が、その誕生を待ち望んで、様々に語らっていたであろう世界に! しかし、生まれてすぐには、その言語を理解することはおろか、 自分の生命自体も自分で維持できない「寄る辺なき存在」である。 世話してくれる存在を必要とする。 がゆえに、その世話してくれる存在が乳児にとって、大きな影響を与えるであろうことは難くない。 その世話する存在は、たいてい「母」その人である。 このとき、 「母はどのような眼差しで自分を見てくれたのだろう?」 「どのような気持ちでおっぱいを口に含ませてくれ たのだろう?」 「どのような想いで抱っこしてくれたのだろうか?」 知りたい!! それが、 「ぼくどうやってうまれてきたの?」 「赤ちゃんってどこから生まれてくるの?」 という、幼児の質問かもしれない。 こんな、自らの根源への問いをすべての人は、意識的にも無意識的にも心の内奥に持っているようだ。 例えば、 不登校や引き込もりの人たちも、何らかのきっかけでこの問に向きあっているのではないだろうか? 母の眼差しを知りたい方は シニフィアン研究所までご連絡ください http://signifiant-lab.com/ |
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無意識のうちに相手の心を引き裂くような対話をしている場合がある
「好きにしなさい!そのかわりどうなっても知らないからね!」
「どっちにするの!早く決めなさい!」
と怖い顔で言う
言葉は「好きにしなさい」と言ってるけど
顔は明らかに「ダメ、私の言うとおりにしなさい」と言ってる
自分の思う方を選択すれば、「勝手にしなさい」と見捨てられ
相手の言うとおりにすれば自分にとっては嫌な選択肢となる
結局、どちらを選択しても辛いものとなる
このようにして心は引き裂かれてゆく
それだけで終わらない
ちょっとでも不満を言おうものなら
「何言ってるの、あんたが自分でそうすると決めたんだからね!」と念を押される
このように、表面は自分で決めたかのようでありながら
結局相手の言うとおりにさせられてしまう
どちらを選んでも辛い立場に追い込まれることになる
かといってそこから逃げ出すわけにはいかない
こういうことをベイトソンは「ダブルバインド(二重拘束)」と言った
言っている本人はそのことに気付いていない事が多い
決して悪気があるわけじゃない
「相手のためを思って言ってるんだ」
「ちゃんと相手に聞いている、自分の意見を押し付けたわけじゃない」
言われる方も
「自分のことを思って言ってくれてるんだ」
「そんな相手に嫌な気持ちにさせてはいけない」
と、ますますその渦の中から抜け出せなくなる
なぜそのようなことが起きるのか?
言う方も同じく引き裂かれてきた可能性が高い
≪自分の狂気を早く他の誰かに譲り渡さなければ発狂してしまう≫
このような恐れを無意識に抱いていると言えるのではないか?
まるで
【狂気のババ抜き】をしているかのように思える
シニフィアン研究所はこちら http://signifiant-lab.com/
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生きる意味がどこかにあるのではないか?
そう思って探してみても、そんなものはどこにも無い
しかし、
生きる意味はどこにでも転がっている
これでいいのか?
生きるとは?
生きる意味とは?
今、自分は生きていると言えるのだろうか?
どこかに自分の生きる意味があるのではないか?
誰でも一度はこれらの問いかけを持ったことがあるだろう
あるいは、今なお問いかけ続けているかもしれない
生きる意味を見つけて、その道を歩んでいる人もいるだろうし
見出したと思っていたが、一抹の迷いをもっているかもしれない
生きる意味は人それぞれ
客観的に決められるものではない
主観的に決めるものと言えるだろう
つまり
生きる意味は自分で決める
「これが私の生きる意味だ」と!
自分で自分の生きる意味を規定できたら、それがその人の生きる意味
生きるに値する値打ちがあるからするのでもない
他者が認めるからするのでもない
そんな理由など一切関係ない
どこかにあるようでどこにも無く、どこにも無いようでどこにでも転がっているものである
至極簡単!
私が決めたから、そこに私の生きる意味がある
ただそれだけのこと
生きる意味を見だせない方は
Φ シニフィアン研究所までご相談ください http://signifiant-lab.com/
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自分を産んでくれた生身の「母」から心身ともに分離すること
それは大人になることでもあり、自立(自律)でもあり、社会参入することでもある
産まれることによって、すべての人の体は母から分離する
問題は「心」だ
心理的にいわゆる「母子分離」することが成長する時の一つの課題となる
ある年齢になると
「いつまでもお母さんのおっぱいを吸ってるな!」
「いいかげんお母さんから離れろ!」
と言われるようになる
そして、仕方なく我慢するようになる
無理に離されると思慕の念はより強くなる
自然に離れるようになるのを待つのが理想だ
特に乳幼児の離乳は自ら離すまでは与えるのが基本となる
満足すれば自ら離す
それまでは年齢に関係なく与えることが望ましい
体は母から離れ求めなくなったとしても、精神的に離れる事は別のことである
肉体的に大人になっても、母を求める人の何と多い事か
「乳離れしてない大人たち」
いつまでも親元を離れない
結婚しても毎日のように親の家に出入りする
何かと相談したり、電話もしょっちゅうするetc
逆に、親への不平不満を言うのも同じである
極論かもしれないが
すべての人は「母しか観ていない」とまで言える気がしている
ある女性はある時、たまりかねてご主人に
「わたしはあんたの母じゃない!私とお母さんのどっちを取るの?!」と叫んだという
これらの事の是非を言うつもりは無い
誰しも、我を存在せしめてくれた母を思慕するのは当然であり、やはり母は特別な存在である
ただその母にこだわり続ける心がなぜ問題なのか?と問いかけているのである
結論から言うと「生きることに疲れる可能性が高い」
つまり、社会の中で生きていくことが非常にストレスフルに感じやすい傾向にある
ゆえに、「母子分離」をすることが要請される
母子分離をするとは、生身の「母」を諦め、対象化すること
母そのものに求めても得られないと諦め、その母の場を空無にすること
そうすれば
その場はどんなものでも埋められる、無限に拓かれた場となる
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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