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人は何らかの決意をしたとき、必ずと言ってもいいほどに部屋の整理をする
子どもなら、おもちゃやマンガ、ゲームやそのソフトや遊び道具
机の上や引き出しや本棚など
大人になってくれば、洋服や趣味のものや収集したもの、
カーテンや絨毯や家具など
端的に現れるのは、女性
髪型や洋服の色や長さなどの好みをガラリと換える
時には家自体を住み替えることまでもする
特徴的なのは
中途半端なことはしない
思いっきり、きっぱり、ばっさり、まったく異なるように変容する
それだけ堅い決意をしたとも言えるだろう
逆に、
気持や気分を変えたいから整理する場合はどうか?
それは一時的なものとなる可能性が高い
なぜなら、気持ちの整理ができてこそ換えたくなるものであって
変えたからといって想いや考えが簡単に変えられ、決意できるものではないからである
時と共にまた思い出して再燃する
誰かが自発的に整理し始めたなら、何らかの決意をした可能性が高いと言えるだろう
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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社会という集団の中になかなかなじめない、参入できない
遅れ感や疎外感、見捨てられ感などを感じている
そんなとき、あるきっかけにより出てゆけなくなる
それぞれ人によって多少の違いはあるものの、結果的に人と交われなくなる
いわゆる、引きこもりや不登校、登社拒否、うつ症状と呼ばれる情態
これらのことを例えて言えば
骨折したときと同じ
足元の石ころに気付かず、躓いて転び骨折をしたようなもの
その骨折の場所と程度により全治○○週間、○○ヶ月と診断される
骨折の場合一番大切なことは
まずは骨折箇所の固定と安静
その程度によって運動や生活は制限されるし、介助も必要になる
そして、リハビリ
治癒すれば自然と元の生活に戻ることができる
引きこもりは心の骨折
その場所と程度によって元に戻るための介助と支援と時間は決まる
大切なことは
骨折の事実を認め、回復のために必要な援助や支援と時間を見極めること
客観的に必要とされるものと主観的(本人の意志)に必要なものは
必ずしも同じではないことを忘れない事
その人にとって必要な時間をかけること
決して焦らないこと
骨折したことを悔やんだり、責めたり、焦っても治りはしない
適切な処置と安静と援助と時間が必須
長引く場合はどんな時か?
それは言うまでもないことであろう
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すべては母から生まれる
生まれる=二度とは戻れない=楽園からの追放→回帰を切望する
母の胸に抱かれ、安心しておっぱいを吸う
許されるのは一体どのくらいの期間だろう?
兄弟姉妹が生まれ、おっぱいを奪われる
その小さきライバルをにらみつける眼差し
陰でいじめようとする
いつまでも甘えるな!
と禁止される
一人歩きを要求、時には強要される
「母」は大なり小なり、禁止される対象としてある
しかし、どの人の根底にも「母への郷愁」がある
叶えられなかった「怒り」がある
「悲しみ」がある
それが日々の語らいの中に見え隠れする
人は決して諦めないようだ
もしかしたら、、、いつかきっと、、、
一分の望みを決して捨てようとはしない
「あなたが思うような母はドコにもいない」
と、何度繰り返しても決して断念しない
なぜそれほどまでに狂おしく求めて止めないのか?
禁止された存在であるがゆえに
二度と戻れぬ場所であるがゆえに
楽園に居ることを求める限りそこから逃れる術はない
だからこそ、禁止の法を立てるのである
しかし、その禁止の札があるからこそ、そこに立ち戻ってしまうものでもある
ゆえに、禁止の法の世界の住人となることでかろうじて楽園を断念させられる
法は楽園への回帰を禁止し、一方では楽園のありかを示すものともなる
そして、禁止されるがゆえに、その向こうにある楽園を思い描くのである
生まれた限りはもう元には戻れない
しかし、時空を自由に旅することのできる精神はその限りではない
ゆえに、禁止の札を立てざるを得ない
なぜ、それほどまでに禁止の法が必要なのか?
それは社会の崩壊に繋がることだからである
社会参入の第一歩が「母からの分離」
母とは求めても永遠に手に入らないものの代表となる
つまり「母とは禁止されたものの別名」である
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「人は他者を必要としていない」
このように言うと、たぶん反論が出てくるだろう
人は人の中で生きている、だから人間と言うんだ・・・
確かにその通りではある
「自分以外の人」としての他者は多数いるし、また必要でもある
社会と言う名の集団の中で生活しているのだから
それらの他者には「自分を映す鏡としての他者」と「自分を映さない他者」がいる
自分を映す鏡としての他者=自分自身
と言える
だから必然的に他者はいないことになる
では、自分を映さない他者はどうなるか?
それは他者ではなく、風景と同じようなものである
草木や動物などと同じく「ただそこにあるもの、いるもの」
でしかない
何らかの関係を持つ=意味づけることがない限り
それはその人にとっては「いない」もしくは「ない」に等しい
つまり、「ある」「いる」と意味づけたものは自分自身ということになる
つまり、どこにも「他者」はいないことになる
こうして、他者で構成された社会のはずがどこにも他者はいないことになる
人は自分自身しか見出していない
いるのは自己肥大した自分、自己拡大した自分しか見ていない
どこに他者はいるのか?
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雨の日にダンボールの中で哭いている子猫や子犬
それを見て通り過ぎる人
可哀想にとつぶやきながら行く人
立ち止まり、「お前達、捨てられたの?可哀想にね~」と言いながらしばらくの間傘をさしかける人
駆け寄り、抱きしめて泣き出す人
何か食べ物がないかとカバンの中を探す人、食べ物をあげる人
ダンボールごと抱き上げ、家まで連れて帰る人
人の反応はさまざまであろう
その中で「可哀想」と感じ、立ち止まり、その場から離れられない人の場合
その人の心の中では、どのような動きがあるのだろうか?
想像してみる
こんなに可愛いのにどうして捨てたのだろう?
可哀想に、このままでは死んでしまうかもしれない
飼い主が悪いんだ
飼い主がきちんと避妊してやらなかったからだ
捨てるくらいなら飼わなければいいのに
誰か貰ってくれる人をを探してやれば良いのに無責任だ
などなど
犬猫への同情と捨て主への怒りが沸騰していることだろう
これらの犬猫は「雨の降る中、ダンボールの中にいる」という状態
ただそれだけの事象
なのに
この事象に人は何らかの感情や想いを抱く場合が多々ある
このような状態を「同一化」と呼ぶ
犬や猫に対して、まるで自分であるかのように感じ
あるいは、自分がその猫や犬だったらどう感じるだろうと想像してみる
「可哀想」と感じた瞬間に犬猫=自分自身という図式の中にいる
そうすると、捨てられた自分だから足が止まり、放っておけなくなる
抱き締め、家に連れて帰り、世話をしないではいれらなくなる
世話をしてもらいたかったのに、してもらえなかった可哀想な自分を重ねて見ている
だから、自分がして欲しいように世話をする
尻尾でも振り、なついてくればもう可愛くて、可愛くて仕方なくなる
しかし、自分の思うようにならなかったら、逆に憎らしくなり、果ては虐待まで至る可能性もある
これらは動物でありながら、その人の心の中では動物とは考えていない
そこに見いだしているのは自分自身である
見捨てられ、寂しいよ、悲しいよ、抱っこしてよとワンワン泣いているかつての自分であり
捨て主に大対しての怒りは、過去の世話してくれなかった対象への怒りである
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