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女性は男性よりも複雑だと言われる
「男って単純でいいわね」というフレーズを時として聞く
その真偽はともかくとして
女は感情を曲げると意地を張る傾向があるようだ
論理ではなく、「とにかく嫌い!イヤ!」
と言い出したらテコでも曲げない
その女の意地を行使して目的のものを手中にすることもある
例えば
「あなたには出来ないでしょうね」とチクリと刺す
すると、感情的に受け止め「何がなんでもやってやる!!」と意地を出す
「あの子には絶対負けられない」と覚悟すると
どんな手を使ってでも勝とうとする
「あなたは何人産んでも女の子でしょうね」と言われたら
意地でも「男の子」を産む
姑の一言がシャクにさわって、二度と口をきかない
挙句の果ては「私と親のどっちを取るの!」と夫に詰め寄った
自宅が道路より下にあるため、「人に見下げられる、今に見ていろ!」
と、節約と夫をけしかけて高台に屋敷替えをした人もいる
どうしても自分に振り向かせたくて「妊娠」を使った人もいる
あえて「女」とした
男にはない特有の「女の意地」が確かにある
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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泣いていたら・・・「何をメソメソしてるんだ、泣くな!」
笑っていたら・・・「ヘラヘラして!調子に乗るな!今に足元を掬われるぞ!」
怒っていたら・・・「腹を立てるな、人に嫌われるぞ!人間我慢が大事だ、忍耐だ!」
ノンビリごろごろしていたら・・・「ぐうたらみたいにするな!ダラダラするな、そんな暇があるなら手伝え!」
行きたくない、やりたくないと言ったら・・・「わがまま気ままは許さん!」
「自分勝手を言ってると社会では生きられんぞ!」
「誰のおかげで大きくなったと思ってるんだ!」
新しい何かを買ったら・・・「無駄遣いをするな!金は大事にしろ、使うな!」
情を出すことを禁じられ、味わうこともままならず、のんびり寛ぐことも許されない。
自分は一体なんのために生きているのだろう?
この世は生きる意味などあるのか?
何が嬉しくて人は生きているのだろう?
こんな考えが次から次へと浮かんできては消える
生きることそのものが虚しくなる
これを生の貧困という
いっそ死んでしまおうかと思う
だけど、それさえも「世間体が悪い、笑われる」と許されない
まさしく 飼い殺し とはこのことだと痛感する
こんな叫びを聴くことは決して稀ではない
人は叫んでいる
心の底から、声にならない、声にできない叫びをあげている
この声にならない叫びはいったいどこからやってくるのだろう?
だれがこの叫びを聞いてくれるのか?
聞いてほしい
聞いて欲しいと叫び続けている
内容は違ってもクライアントは常に叫んでいる
インテグレーターは、日々こクライアントの叫びを聴き、
クライアントがどのように叫んでいるのかを言語化している
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「タバコ」と言ったら灰皿も持っていく
「おい」と言ったら、何を言いたいのかすぐに分かる
目を見ただけで何を欲しいのか分かる
「いいよ」と言ってるけど、本心は違う、遠慮している
あの人にあげたから、この人にもあげる
これらが「気の利いた良い子」だと言われ
「よく気がつく良い子」だと誉められ、これらが「気配り」だ
「相手の立場に立って考えること」だと教えられてきた人の何と多いことだろう。
これらは言葉をほとんど必要としない関係となる。
名前を呼んだり、「おい」とか「ちょっと」とか「あれ」「それ」など最低限の単語で事足りる。
家庭の中でこのようなことが日常となっていたなら
他者との対話は非常に難しいことと感じるだろう。
社会の中で自分の意志を相手に伝える為には、基本的にはきちんとした文章を必要とするからだ。
それに表情や声のトーンや仕草などを加味して
その言語の信憑性を確認する。
気を利かすことは、ややもすると人を言語のない世界へと陥れることにもなる。
これは言語をなし崩しにする方向とも言える。
言葉を代えれば、幼児期の母子関係への退行でもある。
「オギャー」との声に
養育者は「おっぱい」が欲しいと泣いている
「おむつが濡れて気持ち悪いんだ」
「眠たくてぐずっているんだ」
と読み解き、それに応じた対応をし、泣き止んだなら
「やっぱり、わたしの思った通りだ」と喜び安堵する。
まだ言葉を使えない乳幼児には必要なことでもある。
しかし、言葉を覚え、理解し、自ら使えるようになれば
その言葉を使って意志を伝え、また相手を理解するのが基本。
時には言葉で言わなくても理解してもらいたい時もあるだろう。
それをも否定するつもりはない。
しかし、自分の意志はきちんと言語を使って伝えるのが基本
それをあえて強調したい。
それは言語を信頼し、言語に従うことでもある。
そして、それは父なるものに従う=法(掟)を守る=規則に従う=素直になることと等価である。
誤解を恐れずに言えば、人間であることでもあると思う。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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自分と思っている私は一般的には「自我」と呼ばれる。
そして、たいていはそれが私だと信じて疑わない。
ましてや、その自我が他者から視覚的に取り入れ、あるいは語られたイメージの総合したものだとは
考えもしないことだろう。
ラカンはそれらを「鏡像段階」として理論化した。
「<私>の機能を構成するものとしての鏡像段階」の中でこう書いている。
【鏡像段階とは、そのなかで内的な心拍が、不足から先取りへと突き進んでゆくひとつのドラマである。・・・・これらの幻想は、身体の寸断されたイメージから、そのまとまりからわたしたちが整形外科的と呼んでいるひとつの形態へ、さらに最終的には、ひとつの疎外的同一性の結果としての鎧へと移行してゆく。】
鏡の中に映し出された虚像を自分だと思う。そして、他者が「これがあなたよ」と語られることによって
確かなものとしてゆく。
複数の他者が全く違う姿を映し出したとしたらどうだろう?
どれが一体本当の私なのか?
他者は口々に勝手なことを語るだろう。
それらを総合して「これが私だ」と言えたならその人はアイデンティティーを持てる。
しかし、複数の語らいの中でまとめあげられなかったならきっと混乱するだろう。
ゆえに、最初期(乳幼児期)にはただ一人の人がその鏡となる必要性が生じる。
その基盤の上に、玉ねぎの皮を重ねるように構築、改変をしてゆく。
とまれ、自我なるものは非常に危ういものとしてあると言えるだろう。
自我を強化するのではなく、時々に理想とする虚像に同一化してゆくことによって
更新しつづけることでしか生き延びてゆくすべはないように感じる。
この更新を諦めたとき、その鎧はより強固で扉も分厚いものとなるだろう。
更新し続けるなら表皮は常に柔らかく潤いや弾力性を持ち、新たな皮膚を表皮にするために
いともたやすく剥がれ落ちることだろう。
他者から(おもに両親から)着せられた鎧は、ややもすると本人にとっては快適なものではないかもしれない。
ある人は周りから「我慢」という皮膚を着せられ、それを自分だと信じこまされてきた。
そして、自分でもそれが自分だと思ってきた。
しかし、ある時その皮膚を「掻きむしる」それも血が出るまで掻きむしることによって
その皮膚が他者から着せられた皮膚だと気づくこととなった。
これは私の皮膚ではない。自らの皮膚で生きたいと叫んでいた。
子どもを守る「保護服」のつもりで着せた親の想いは、その子どもの身には合わず
いつしか逆に自由を奪いがんじがらめにする「拘束服」となっていた。
それを脱ぎ捨てれば大変なことになるよと脅されてていたから、打ち破り脱ぎ捨てる勇気が出なかった。
その葛藤が皮膚を掻きむしるという行為となっていたのだった。
それに気づき、脱ぎ捨てる勇気を持つと覚悟したときから
その人は血が出るまで掻きむしることはしなくなった。
鎧は自分の意志で自由に着脱できることを知ったからである。
お問い合わせは シニフィアン研究所まで http://signifiant-lab.com/ |
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自分と思っている私は一般的には「自我」と呼ばれる。
そして、たいていはそれが私だと信じて疑わない。
ましてや、その自我が他者から視覚的に取り入れ、あるいは語られたイメージの総合したものだとは
考えもしないことだろう。
ラカンはそれらを「鏡像段階」として理論化した。
「<私>の機能を構成するものとしての鏡像段階」の中でこう書いている。
【鏡像段階とは、そのなかで内的な心拍が、不足から先取りへと突き進んでゆくひとつのドラマである。・・・・これらの幻想は、身体の寸断されたイメージから、そのまとまりからわたしたちが整形外科的と呼んでいるひとつの形態へ、さらに最終的には、ひとつの疎外的同一性の結果としての鎧へと移行してゆく。】
鏡の中に映し出された虚像を自分だと思う。そして、他者が「これがあなたよ」と語られることによって
確かなものとしてゆく。
複数の他者が全く違う姿を映し出したとしたらどうだろう?
どれが一体本当の私なのか?
他者は口々に勝手なことを語るだろう。
それらを総合して「これが私だ」と言えたならその人はアイデンティティーを持てる。
しかし、複数の語らいの中でまとめあげられなかったならきっと混乱するだろう。
ゆえに、最初期(乳幼児期)にはただ一人の人がその鏡となる必要性が生じる。
その基盤の上に、玉ねぎの皮を重ねるように構築、改変をしてゆく。
とまれ、自我なるものは非常に危ういものとしてあると言えるだろう。
自我を強化するのではなく、時々に理想とする虚像に同一化してゆくことによって
更新しつづけることでしか生き延びてゆくすべはないように感じる。
この更新を諦めたとき、その鎧はより強固で扉も分厚いものとなるだろう。
更新し続けるなら表皮は常に柔らかく潤いや弾力性を持ち、新たな皮膚を表皮にするために
いともたやすく剥がれ落ちることだろう。
他者から(おもに両親から)着せられた鎧は、ややもすると本人にとっては快適なものではないかもしれない。
ある人は周りから「我慢」という皮膚を着せられ、それを自分だと信じこまされてきた。
そして、自分でもそれが自分だと思ってきた。
しかし、ある時その皮膚を「掻きむしる」それも血が出るまで掻きむしることによって
その皮膚が他者から着せられた皮膚だと気づくこととなった。
これは私の皮膚ではない。自らの皮膚で生きたいと叫んでいた。
子どもを守る「保護服」のつもりで着せた親の想いは、その子どもの身には合わず
いつしか逆に自由を奪いがんじがらめにする「拘束服」となっていた。
それを脱ぎ捨てれば大変なことになるよと脅されてていたから、打ち破り脱ぎ捨てる勇気が出なかった。
その葛藤が皮膚を掻きむしるという行為となっていたのだった。
それに気づき、脱ぎ捨てる勇気を持つと覚悟したときから
その人は血が出るまで掻きむしることはしなくなった。
鎧は自分の意志で自由に着脱できることを知ったからである。
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