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人は自己愛が傷つくことを一番恐れる。
それは自分の存在を危うくするからだ。
そのためには人は我が生命を危機に陥れても守ろうとするようだ。
特に自分の精神的な基盤だと感じている人(母なる存在)に対してはその傾向がより強い。
当然と言えば当然だろう。
すべての人は母から生まれる。
がゆえに、精神的基盤の最初は母だと言える。
その母は自分を大切に思ってくれていると信じたい気持ちはだれにでもあるだろう。
物心つかない幼少期の記憶はその可能性が高い。
乳幼児期はあらゆる刺激を五感を通して体に記憶する。
後に言語を習得し、同じような体験や経験を通してそれを言語化する。
その時に可能なかぎり自分の自己愛を傷つけないように書き換える。
自分を虐待する母であっても、見捨てた母であったとしても
例えば
「放ったらかし」を「自由にさせてもらった」
「つねる」を「強く抱き抱きしめてくれた」
「怒る」を「自分に関心を持ってくれていた」
あるいは
「きっと何か理由があったに違いない」
「母だって本当はそんなコトしたくなかったに違いない」
そう思うことによって防衛している。
また
「母は私を見捨てたんだ」と叫びつつ
どこかで「そうじゃないよ」と誰かに言って欲しいと切望している。
これらの葛藤は非常にエネルギーを消費する。
ゆえに、人は自分に都合の良い様に書き換える。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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人は二つの時を生きている。
「身体の時」と「精神の時」
「身体の時」は不可逆的に時間軸に沿って変化している。
一方「精神の時」は無時間性で時空を超えている。
可逆的にいつの時代にもどこの世界にも瞬時に飛んでいける。
まるで、ドラえもんのどこでもドアさながらである。
この「精神の時」を考えてみたい。
精神の時を生きているとは言語活動によって生きている=シニフィアンの運動をしている
つまり、人は何らかのせきたてとも呼べる動因(言語)により
何らかの対象(言語)に向かって突き動かされている。
それが何なのかに対して人は無知である。
ここから
「私は一体何がしたいのだろうか?」
「何のために生きているのだろうか?」
との問いかけが生じてくる。
例えば、何らかの目標(言語)に達したとき人は満足を得る。
それは「精神の死」と呼べる。
美味しい物を食べたいと欲し、それを食べられたなら「満足」という小さな死を味わっている。
そこから動くためには(=生きる)また何らかの対象(言語)を打ち立てなくてはならない。
それがないと人は動こうとしない。否、動けないのだ。
この何らかの対象を立てる=言語化する
つまり、言語によって人は動く。
「お腹がいっぱいになった、さあ次は○○しよう」のように。
日常の中でこのような小さな死と生を繰り返している。
逆説的に言えば「人は生きるために日々死んでいる」
「眠れば死、目覚めれば生」なども同じ意だろう。
悲願などと言われ、ある目標を設定し、それを達成したとき
その人はしばらくは動けないだろう。
それは感動の嵐と満足を味わっているからだ。
満足してしまったら人はそこから動こうとしない。
その時その人の精神は死んでいると言えるだろう。
その精神の死から生還するためには次の目標を打ち立てる(=言語化する)必要がある。
それができたなら、またそれに向かって生きはじめるだろう。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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人は母の子宮から生み出される。
子宮という楽園から追放されるとも言える。
その一方で、母からすれば出産は、胎内で一体だったものを失うことでもある。
自分の一部分を失うことと等価である。
では、その我が子はどのようにして胎内化したのだろうか?
処女膜を喪失することから始まる数々の喪失体験から。
受け入れることはそのまま喪失体験に繋がる。
一般的には、喪失体験をしない限りわが子を宿すことは不可能である。
我が子は受け入れ、失った体験の結果として得たものという言い方もできる。
もちろん、喪失体験=わが子とは限らないが。
体内に宿ったものを重ねる月日と共に動きを感じ、我が子という実感と一体感を深める。
しかし、それも1年とは続かない。
産み出さなければならない。
母となることは、体内にある空洞を一時期満たしてくれたものを喪失することでもある。
それゆえ、一度は失ったものを目にし、産声を聞き、抱きしめて肌に触れ、匂いをかぐ。
自分の命と引き換えるかもしれない可能性を孕んだ中で、痛みを伴って手にしたものを知る。
我が一部であり、自分を必要とする「寄る辺なき存在」
何があっても離したくない、私のものだと思ったとしてもうなずけるだろう。
このようにして、手塩にかけて育てたとしても
やがて言葉を覚え、「イヤ」と言い始める時期が来る。
自分の思うとおりにならない子に喪失感を感じ、次の子どもを妊娠する母もいる。
そして、母よりも遊ぶ友達を優先し、やがて成長と共に母に反抗する。
反発と反抗だけでなく、踏み台にしてゆく。
母は、大した人間ではないと見なされ、なめられ、時にはバカにされ、捨てせりふを吐かれるようになる。
そうして、母を捨て去り社会へと飛び立ってゆく。
ここでも母は喪失体験をする。
ある種、子どもに捨てられるのである。
ここで母を捨てるためには父の機能が必要となる。(これについては別途記述する予定)
何度でも女性は母は失いつづける。
乱暴な物言いかもしれないが、穴が男性よりも一つ多いがために女性は喪失することを常とする。
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人はどうして迷うのか?
それは自己決定できないからである。
迷うというのは選択肢が複数あって、その中から一つを選択、決定できないことから生じる。
では、なぜ一つを選択、決定できないのか?
その前提として、何かを選択して決定しなければならない事象がある。
その事象はその人にとって、できることなら向き合いたくない事象であったり、逃げたい事象である場合が多い。
なぜなら、向き合える事象なら選択し、決定できるはずだから。
次に、たいていは選択したらどうなるか?を考える。
この時共通していることは
まず、自分よりも相手や周りのことを考えてしまう、
自分にとって不都合なことを考えてしまう傾向にある。
例えば選択肢がAとBがある場合
「もしAを選択したら人はどう思うだろうか?」
「Bを選択したら立場が悪くならないだろうか?」と考える。
よって、Aを選択してもBを選択しても自分にとって不都合なことばかりだと思ってしまう。
その結果
Aも不安だしBも不安だ、かといって決めないわけにはいかないし、どうしよう、、、、、
と決められない。
あるいは、同じするなら完璧にしたいと考えてしまい、できるだろうかと不安になる。
このようにして迷いが迷いを増幅し、その中からなかなか出られないことになる。
では、この迷いから出るにはどうしたら良いか?
簡単である。
まず、色々考える前に決めるんだと決意すること。(先送りすることも選択肢の一つ)
そして、どれを選択するかの基準は
できる方よりも、好きな方を選択すること。
立場や周りからの期待や状況を最優先しないこと。
まず、自分の正直な気持ち(したいかしたくないか、好きか嫌いか)を優先する。
そして、それを実現するためにはどうしたらよいかを考え、その方法を探す。
ここまで来れば、もう迷いからはほとんど脱している。
何よりも一番大切なことは「とにかく決めると決意すること」
それが迷いから脱せる糸口となる。
決意しても揺らぐこともあるかもしれないが、その時は
決めると決意したのだから!と決意した自分に立ち返ることで何度でも決意を新たにすることである。
お問い合わせは シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/ |
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家族の誰かが、ある日突然、学校や職場へ行かなくなった。あるいは、休む日が増えてきた。 |
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