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【因幡の白兎】の神話知っている人は多いことだろう
この神話のストーリーの一部を取り出して 現在の子供たちの叫びを重ねてみたい 「嘘をついてワニザメを騙した「白兎」が悪いのですが その神話の中にある 「ワニザメ」に体中の毛をむしり取られ、丸裸にされ、 通りかかった大国主命の兄神様に「海水でカラダを洗い、風にカラダを晒したよい」 と言われて、より酷くなった。 そこへ通りかかった、大国主命によって助けられた。 この部分を、取り出してみたい 体中の毛をむしり取られた白兎 その体に海水と風によって一層酷くなって泣いている白兎 この白兎=言いたい事も言えず、したいこともさせてもらえず、 「アナタのためを思って、こんなに一所懸命お母さんは頑張っているのよ」 と言われて、日々苦悶し、あるいは諦めている子どもたち このように見えないだろうか? 神話の乱暴な解釈だと非難をうけるかもしれないが 現在の子どもたちの叫びを聴いていると 【因幡の白兎】の神話を思い出した 夜遅くまで進学塾や習い事に急ぐ子どもたち 学校のカバンを塾や習い事のカバンに持ち替えて、とんぼ返りする子どもたち 一見、楽しそうにゲームにふける子どもたち 早期に諦めたのか、まるで世捨て人のように徘徊し、たむろする子どもたち それを助長するかのような、青少年の犯罪増加 見守られているが、反面監視されているかのようにも思える これら どこかオカシイと感じる 果たしてこれが正常な振る舞いなのか? どこか、違和感を感じる 子どもが子ども時代を送れなくなっている やけに、おとなしくなっている 行儀が良すぎる 優秀すぎる 出来過ぎる 大人に囲まれすぎている どこかオカシイ ボタンの掛け違いがある気がする オカシイ、オカシイ・・・・・ 何もかも奪われている=【剥奪】と言う 剥がされ、奪われる まさしく 『因幡の白兎』ではないだろうか? 子ども時代を奪っていませんか? 選択の自由を奪っていませんか? 子どもが好きなことから剥がしていませんか? 大好きな人から剥がしていませんか? あなたの子供時代はどうでしたか? 子どもが子どもらしくて当たり前 子どもが大人らしいのは、もうすでに病んでいる 子どもの心は悲鳴を上げているかもしれません 興味をもたれた方はこちらを参照ください http://signifiant-lab.com/raise/ http://signifiant-lab.com/ PR |
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1)ある都市での駐輪禁止が守られないので一計を講じたという
「駐輪禁止場所に子どもの禁止の絵をプリントした」 そうすると、誰一人駐輪しなくなった レポーターが止めようとして止めた人にインタビューしていた 『どうしてここに(絵の上)に駐輪しなかったのですか?』 『子どもの描いた絵の上には停められないでしょ!』 『子どもの絵は踏めませんよ』etc 2)道端のミカンの一つ一つに顔を描いたら盗られなくなった 「人の顔を描くと、見られていると感じる傾向がある」 と、心理学者が解説していた いずれもメディアで紹介されていた 3)歴史的には 「踏み絵」が思い出される これは、キリシタンを取り締まるために行われた 1)2)3)の事象は何を示しているのだろうか? これらに共通することは一体何か? いずれもそのもの自体ではない なのに、人はその前で立ち止まるのはなぜか? それは その向こう側に【意味(想像)】を見出しているからだ 例えば 「子どもの描いた絵のコピー」の向こう側に -無邪気な子どもたちが、一所懸命で描いたのだろうなあ -そんな子どもの想いや行為を踏みつけてはいけない -我が子や孫の姿を思い出した -かつての自分を重ねてみたetc 人それぞれ固有の意味付け(想像界)が想像できる だからこそ 本物ではなくコピーであり そして、それが偽物であると分かっていても 人は、自分の意味づけ(想像界)の前で立ち止まるのである 人はこのように『自分固有の意味づけ(想像界)で生きている』 だからこそ 「駐輪禁止」という文字よりも有効性がある 「絵」を通して想像をたくましくする それによって行動が決まる 逆に言えば 「その人の行動を見れば、その日宇との想像界が見えてくる」 興味をもたれた方はこちらを参照ください シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/ |
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自分と同じ想いを相手にも味わわせてやりたい
ただこの一念
これを【復讐】と呼ぶ
自分がどんな辛い想いをしたか
どんな悲しい想いをしたか
どんな痛い目にあったか
思い知るがいい!
同じ体験をしない限り解らない
だから
同じ体験をさせるしかない
このような【復讐】は特別な事情のある人だけではない
日常的に行われている
このことに、一体どれくらいの人が気付いているだろう?!
家庭内で、職場で、いたるところで行われている
よくあるパターンは
「しつけ教育」という名の復讐
家庭内や職場、学校など閉鎖空間で起きやすい
しつけは必要
だから、している側は復讐とは思っていない
愛情だとさえ思っているかもしれない
「あなたの為を思って言っている(している)んだよ、憎くて言っている(している)のではない」
「お前が困らないように思ってるからなんだ」
などなど
言う側(する側)からの視点では「愛情」や「思いやり」のつもりかもしれないが
言われる側の視点では「暴力」や「強制」や「過干渉」となっている場合が多い
それを確かめるのは簡単だ
言われる側の人に聞けばよい
「暴力」におは「暴力」で
「強制」には「強制」で
「過干渉」は「過干渉」で返す
それが極まれば【復讐】となる
自分は【復讐】される覚えは無くても
相手は【復讐】に値すると受け取ったのだ
誤解や逆恨みではない
このように
「しつけ」や「教育」は【復讐】の温床となりやすい
適切な「しつけ」「教育」に興味をもたれた方は
精神分析的子育て法を参照ください
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【幼児虐待】が後を絶たない
≪「自分が買った飲み物を勝手に飲んだ」と、同居の女性の5歳の子どもの背中に熱湯を浴びせた≫ そんなニュースを見た どうして、このような虐待が起きるのか? どうして、このようなことをしてしまうのか? どうして、大人なのに止められないのか? 相手は子どもなのだから、許してあげても良いじゃないか? また買えば良いじゃないか 様々な意見があるだろう 何が問題なのだろうか? 1)子どもの側から考えられること ・「人のものを勝手に自分のものとしてはいけない」と知らなかった つまり、「適切なしつけ」がされていなかった だから、「これ飲んでも良い?」と聞かなかった ・知っていたとしたら、 その飲み物がその男性のものだと知らなかった だれが飲んでも良いと思っていた 2)大人の側から考えられること ・言葉よりも行動が先に出てしまう ・感情爆発傾向がある ・自分の感情をコントロールできない ・感情を言葉に置き換えることができない 大人は言葉を知っている だから、その時々に応じた適切な言葉を使って、 相手に自分の思いを伝える方法を知っている そして まだ成長途上の子どもに、適切な言葉と使い方を教えてゆくのだ 例えば 「これは、○○のものだから、勝手に食べたら(飲んだら)だめよ」 「欲しいときには、『ちょうだい』って言おうね」 と教えればよい そうすれば、勝手に食べたり飲んだりしないし 欲しいときは『僕にもちょうだい』と言うだろう それでも、勝手に食べたり飲んだりした時には 「欲しいときには『ちょうだい』って言うように教えたのに忘れたの? 今度からはちゃんと言おうね。○○さんに『ごめんなさい』って謝ろうね」 と、再度教えれば良い。 体罰や、ただ叱るだけでは なぜ叱られるのか体罰を与えられるのか理解できない ただ脅えるだけ 怖いからしないだけであって、怖くなければする可能性がある 怒らない人や、体罰を与えない人にはする可能性がある 「なぜ、してはいけないのか」を教えることが大切 それを理解すれば、次からはしなくなる 自分で考えてから行動するようになる 逆に言えば 言葉よりも先に行動する人は このことが学習されていない可能性が高い だから 感情のままに行動し、爆発させる方法しか知らないのだ 適切な言葉を使って、相手に想いを伝えることができない 頭では分かっていても、 思い浮かばないから 自分でもそんな自分に腹が立って、 その苛立ちや腹立たしさを子どもに(相手に)ぶつけてしまうのだ もう一度 時々に応じた言葉での表現の仕方を学ぶ必要がある つまり 側にいて、適切な言葉を丁寧に教えてくれる人を必要とする 育てなおしをする必要がある 精神的に育てなおしをする必要がある 幼児虐待や暴力行為、DVなども同じ 身体年齢に関わらず、 表現の仕方を知らないから、こうするしかないんだ! これしか知らないんだ なのに、誰も教えてくれないんだ 誰も分かってくれないんだ 叱ること、責めることしかしないんだ 誰か教えてくれ! このように叫んでいる この声が聞こえたなら どのようにすれば良いかも観えてくる 精神分析的子育て法 http://signifiant-lab.com/raise/ 摂食障害ーリストカット http://signifiant-lab.com/eatingdisorder/こちらも参考にしてください |
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先日、ニュースで 「生後五ヶ月の幼児死亡、母は育児が嫌になった」 とのテロップが流れた 詳しいことは不明だが、目に留まった 乳幼児の虐待や育児放棄など、 メディアに取り上げられる事は珍しくない昨今 どうして「可愛い」はずの子どもを殺してしまうのか? そんなことをするのなら、どうして産んだのか? そのような問いかけを持つ人 理解できないと考える人も少なくないだろう 育児は大変エネルギーがいる仕事 「可愛い」ばかりではない むしろ、大変な事の方が多いと言っても良い 1)こんなに大変だとは知らなかった いわゆる「無知」である 2)快楽の結果 いわゆる「仕方ない」である 3)彼氏を繋ぎとめる手段 いわゆる「利用の道具」である 4)結婚の理由 いわゆる「できちゃった婚」である 5)どうしても産みたかった いわゆる「自分の再現」 5)の場合を考えてみたい 例えば 上記の幼児死亡の場合 その母自身が生後5ヶ月の時、何らかの事情で見捨てられた可能性が考えられる つまり 「私は、生後五ヶ月の時、殺された」 とのメッセージ もちろん、母は現在生きている 肉体の生死ではなく 精神的に殺されたと意味づけたということ 事実がどうであったかは問題ではない その母自身がそのように考えたなら、 それが、その母にとっての事実(現実)となる これを【心的事実(現実)】と呼ぶ 誰もが心の中に持っている それを、何らかの事柄を契機にして表現する 特に女性の場合 子どもで表現される場合が多い 見捨てられたと感じた母は、わが子を見捨てることで 虐待された母は、わが子を虐待することで 『したくてしているのではない。だけど、せずにはいられない』 そのように叫んでいるのだ 『誰か、私の叫びを聴いて!』 『誰か、私を助けて!』 上記の母だけが特別ではない すべての大人が叫んでいる 全ての子どもが叫んでいる そのように聴こえてくる あなたは叫んでいませんか? 自分の心の声に、耳を澄ませてみませんか? 声が聴こえませんか? 精神分析的子育て法も参照くださいhttp://signifiant-lab.com/raise/ |
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