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「タバコ」と言ったら灰皿も持っていく
「おい」と言ったら、何を言いたいのかすぐに分かる
目を見ただけで何を欲しいのか分かる
「いいよ」と言ってるけど、本心は違う、遠慮している
あの人にあげたから、この人にもあげる
これらが「気の利いた良い子」だと言われ
「よく気がつく良い子」だと誉められ、これらが「気配り」だ
「相手の立場に立って考えること」だと教えられてきた人の何と多いことだろう。
これらは言葉をほとんど必要としない関係となる。
名前を呼んだり、「おい」とか「ちょっと」とか「あれ」「それ」など最低限の単語で事足りる。
家庭の中でこのようなことが日常となっていたなら
他者との対話は非常に難しいことと感じるだろう。
社会の中で自分の意志を相手に伝える為には、基本的にはきちんとした文章を必要とするからだ。
それに表情や声のトーンや仕草などを加味して
その言語の信憑性を確認する。
気を利かすことは、ややもすると人を言語のない世界へと陥れることにもなる。
これは言語をなし崩しにする方向とも言える。
言葉を代えれば、幼児期の母子関係への退行でもある。
「オギャー」との声に
養育者は「おっぱい」が欲しいと泣いている
「おむつが濡れて気持ち悪いんだ」
「眠たくてぐずっているんだ」
と読み解き、それに応じた対応をし、泣き止んだなら
「やっぱり、わたしの思った通りだ」と喜び安堵する。
まだ言葉を使えない乳幼児には必要なことでもある。
しかし、言葉を覚え、理解し、自ら使えるようになれば
その言葉を使って意志を伝え、また相手を理解するのが基本。
時には言葉で言わなくても理解してもらいたい時もあるだろう。
それをも否定するつもりはない。
しかし、自分の意志はきちんと言語を使って伝えるのが基本
それをあえて強調したい。
それは言語を信頼し、言語に従うことでもある。
そして、それは父なるものに従う=法(掟)を守る=規則に従う=素直になることと等価である。
誤解を恐れずに言えば、人間であることでもあると思う。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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自分と思っている私は一般的には「自我」と呼ばれる。
そして、たいていはそれが私だと信じて疑わない。
ましてや、その自我が他者から視覚的に取り入れ、あるいは語られたイメージの総合したものだとは
考えもしないことだろう。
ラカンはそれらを「鏡像段階」として理論化した。
「<私>の機能を構成するものとしての鏡像段階」の中でこう書いている。
【鏡像段階とは、そのなかで内的な心拍が、不足から先取りへと突き進んでゆくひとつのドラマである。・・・・これらの幻想は、身体の寸断されたイメージから、そのまとまりからわたしたちが整形外科的と呼んでいるひとつの形態へ、さらに最終的には、ひとつの疎外的同一性の結果としての鎧へと移行してゆく。】
鏡の中に映し出された虚像を自分だと思う。そして、他者が「これがあなたよ」と語られることによって
確かなものとしてゆく。
複数の他者が全く違う姿を映し出したとしたらどうだろう?
どれが一体本当の私なのか?
他者は口々に勝手なことを語るだろう。
それらを総合して「これが私だ」と言えたならその人はアイデンティティーを持てる。
しかし、複数の語らいの中でまとめあげられなかったならきっと混乱するだろう。
ゆえに、最初期(乳幼児期)にはただ一人の人がその鏡となる必要性が生じる。
その基盤の上に、玉ねぎの皮を重ねるように構築、改変をしてゆく。
とまれ、自我なるものは非常に危ういものとしてあると言えるだろう。
自我を強化するのではなく、時々に理想とする虚像に同一化してゆくことによって
更新しつづけることでしか生き延びてゆくすべはないように感じる。
この更新を諦めたとき、その鎧はより強固で扉も分厚いものとなるだろう。
更新し続けるなら表皮は常に柔らかく潤いや弾力性を持ち、新たな皮膚を表皮にするために
いともたやすく剥がれ落ちることだろう。
他者から(おもに両親から)着せられた鎧は、ややもすると本人にとっては快適なものではないかもしれない。
ある人は周りから「我慢」という皮膚を着せられ、それを自分だと信じこまされてきた。
そして、自分でもそれが自分だと思ってきた。
しかし、ある時その皮膚を「掻きむしる」それも血が出るまで掻きむしることによって
その皮膚が他者から着せられた皮膚だと気づくこととなった。
これは私の皮膚ではない。自らの皮膚で生きたいと叫んでいた。
子どもを守る「保護服」のつもりで着せた親の想いは、その子どもの身には合わず
いつしか逆に自由を奪いがんじがらめにする「拘束服」となっていた。
それを脱ぎ捨てれば大変なことになるよと脅されてていたから、打ち破り脱ぎ捨てる勇気が出なかった。
その葛藤が皮膚を掻きむしるという行為となっていたのだった。
それに気づき、脱ぎ捨てる勇気を持つと覚悟したときから
その人は血が出るまで掻きむしることはしなくなった。
鎧は自分の意志で自由に着脱できることを知ったからである。
お問い合わせは シニフィアン研究所まで http://signifiant-lab.com/ |
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自分と思っている私は一般的には「自我」と呼ばれる。
そして、たいていはそれが私だと信じて疑わない。
ましてや、その自我が他者から視覚的に取り入れ、あるいは語られたイメージの総合したものだとは
考えもしないことだろう。
ラカンはそれらを「鏡像段階」として理論化した。
「<私>の機能を構成するものとしての鏡像段階」の中でこう書いている。
【鏡像段階とは、そのなかで内的な心拍が、不足から先取りへと突き進んでゆくひとつのドラマである。・・・・これらの幻想は、身体の寸断されたイメージから、そのまとまりからわたしたちが整形外科的と呼んでいるひとつの形態へ、さらに最終的には、ひとつの疎外的同一性の結果としての鎧へと移行してゆく。】
鏡の中に映し出された虚像を自分だと思う。そして、他者が「これがあなたよ」と語られることによって
確かなものとしてゆく。
複数の他者が全く違う姿を映し出したとしたらどうだろう?
どれが一体本当の私なのか?
他者は口々に勝手なことを語るだろう。
それらを総合して「これが私だ」と言えたならその人はアイデンティティーを持てる。
しかし、複数の語らいの中でまとめあげられなかったならきっと混乱するだろう。
ゆえに、最初期(乳幼児期)にはただ一人の人がその鏡となる必要性が生じる。
その基盤の上に、玉ねぎの皮を重ねるように構築、改変をしてゆく。
とまれ、自我なるものは非常に危ういものとしてあると言えるだろう。
自我を強化するのではなく、時々に理想とする虚像に同一化してゆくことによって
更新しつづけることでしか生き延びてゆくすべはないように感じる。
この更新を諦めたとき、その鎧はより強固で扉も分厚いものとなるだろう。
更新し続けるなら表皮は常に柔らかく潤いや弾力性を持ち、新たな皮膚を表皮にするために
いともたやすく剥がれ落ちることだろう。
他者から(おもに両親から)着せられた鎧は、ややもすると本人にとっては快適なものではないかもしれない。
ある人は周りから「我慢」という皮膚を着せられ、それを自分だと信じこまされてきた。
そして、自分でもそれが自分だと思ってきた。
しかし、ある時その皮膚を「掻きむしる」それも血が出るまで掻きむしることによって
その皮膚が他者から着せられた皮膚だと気づくこととなった。
これは私の皮膚ではない。自らの皮膚で生きたいと叫んでいた。
子どもを守る「保護服」のつもりで着せた親の想いは、その子どもの身には合わず
いつしか逆に自由を奪いがんじがらめにする「拘束服」となっていた。
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シニフィアン研究所のHPが新しくなりました。 アドレスは http://signifiant-lab.com/ スマートフォンでも見られます。 今後、メイン以外にも「後悔しない子育て」「女たちよ賢明であれ!」のタイトルの記事もアップします。 精神分析的観点からの「子育て法 」を、結婚から始まり、妊娠、出産、育児、成人まで 発達課題と問題を取り上げ、書いてゆく予定です。 子育て相談は、数え切れないくらいありますが、 「母になるとはどういうことか?」から始まり、「どのように育てればよいか?」 「親から見て困った子どもの病気や言動は、なぜ?何を訴えているのか?」 に対しての、的確なアドバイスはなかなか無いように感じます。 また、あまりにも安易に親になりすぎ、あまりにも子育てにおいても【無知】だと痛感しています。 子どもさんのことで悩んでおられる方の一助になればと考え、このHPを立ち上げました。 思春期真っ只中の方から、これから結婚を考えている方、 子育て真っ最中のパパ&ママ、そして、、、離婚を考えている方にも読んでもらいたいです。 特に、結婚について迷っている方必見!! 《賢明なパートナー選び》についても、書く予定です。 今しばらく お待ちください。 ブログも可能な限り、更新してゆきます。 |
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人は相手と何らかの話をしていると、対話しているかのように思っている。
対話とは言葉のキャッチボールと言われるが、
相手のボールをよく見て、正面で受け止める。
投げる方は、できるだけ相手が受け止めやすい所へ投げる。
そうすればお互いに楽である。
ところが実際はどうだろうか?
投げる方は、その時の気分次第で気ままに投げ出す。
ストレートもあれば、シュート、カーブ、果てはとんでもない魔球も生まれる。
こうなったら、受け止める方も最後にはあきらめて、受け取ることをやめてしまうだろう。
受け止めるフリだけして、うなずくだけとなることだろう。
このように話す状態をある人は【垂れ流し】と言った。
適切な言葉だと感じた。
他によくあるのは、命令、指示、伝達。
「あなたの為を思って言ってるのよ!」
この物言いに乗せて、自分の思うとおりに相手を操作しようとするのも命令指示。
あるいは、「こうしなさい、ああしなさい」と、分かりやすい命令指示もある。
伝達は、
「明日、○○があるから」「○○へ行くから」「○○しておいてね」など、
あらかじめ決まっている事柄を伝えるだけで、相談は一切無い。
忙しいと言う名のもとに、言葉は飛び交っているが対話はない。
対話は、食事と同じようなものだと思える。
自分は口から吐き出し、相手に投げる。
相手からきたものは目や耳や肌から摂取し、それを咀嚼し消化し、吸収して血肉とする。
そして、不要なものはすみやかに体外に排出する。
ここには、選択性がある。
自分にとって快か不快か?
どんなに素晴らしいものでも、関心がなかったり、嫌いだと感じたなら
人は決して取り入れない。
いわゆる「スルーする、聞き流す」のである。
【垂れ流し】に対して【受け流し】とでも言える。
受け入れられないものは嘔吐や下痢で表現されるだろう。
つまり、人は自分の好きなモノは取り入れるが、嫌いなモノは取り入れない。
これではとても対話とは言えない。
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