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【2025/07/15 04:44 】 |
狂気のババ抜きーダブルバインド

無意識のうちに相手の心を引き裂くような対話をしている場合がある
「好きにしなさい!そのかわりどうなっても知らないからね!」
「どっちにするの!早く決めなさい!」
と怖い顔で言う
言葉は「好きにしなさい」と言ってるけど
顔は明らかに「ダメ、私の言うとおりにしなさい」と言ってる
自分の思う方を選択すれば、「勝手にしなさい」と見捨てられ
相手の言うとおりにすれば自分にとっては嫌な選択肢となる
結局、どちらを選択しても辛いものとなる
このようにして心は引き裂かれてゆく
それだけで終わらない
ちょっとでも不満を言おうものなら
「何言ってるの、あんたが自分でそうすると決めたんだからね!」と念を押される
 
このように、表面は自分で決めたかのようでありながら
結局相手の言うとおりにさせられてしまう
どちらを選んでも辛い立場に追い込まれることになる
かといってそこから逃げ出すわけにはいかない
こういうことをベイトソンは「ダブルバインド(二重拘束)」と言った
 
言っている本人はそのことに気付いていない事が多い
決して悪気があるわけじゃない
「相手のためを思って言ってるんだ」
「ちゃんと相手に聞いている、自分の意見を押し付けたわけじゃない」
言われる方も
「自分のことを思って言ってくれてるんだ」
「そんな相手に嫌な気持ちにさせてはいけない」
と、ますますその渦の中から抜け出せなくなる
 
なぜそのようなことが起きるのか?
言う方も同じく引き裂かれてきた可能性が高い
≪自分の狂気を早く他の誰かに譲り渡さなければ発狂してしまう≫
このような恐れを無意識に抱いていると言えるのではないか?
まるで
【狂気のババ抜き】をしているかのように思える
 
 
シニフィアン研究所はこちら  http://signifiant-lab.com/
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【2011/09/26 12:01 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
なぜ母子分離が必要なのか?
自分を産んでくれた生身の「母」から心身ともに分離すること
それは大人になることでもあり、自立(自律)でもあり、社会参入することでもある
 
産まれることによって、すべての人の体は母から分離する
問題は「心」だ
心理的にいわゆる「母子分離」することが成長する時の一つの課題となる
ある年齢になると
「いつまでもお母さんのおっぱいを吸ってるな!」
「いいかげんお母さんから離れろ!」
と言われるようになる
そして、仕方なく我慢するようになる
 
無理に離されると思慕の念はより強くなる
自然に離れるようになるのを待つのが理想だ
特に乳幼児の離乳は自ら離すまでは与えるのが基本となる
満足すれば自ら離す
それまでは年齢に関係なく与えることが望ましい
 
体は母から離れ求めなくなったとしても、精神的に離れる事は別のことである
肉体的に大人になっても、母を求める人の何と多い事か
「乳離れしてない大人たち」
いつまでも親元を離れない
結婚しても毎日のように親の家に出入りする
何かと相談したり、電話もしょっちゅうするetc
逆に、親への不平不満を言うのも同じである
極論かもしれないが
すべての人は「母しか観ていない」とまで言える気がしている
ある女性はある時、たまりかねてご主人に
「わたしはあんたの母じゃない!私とお母さんのどっちを取るの?!」と叫んだという
 
これらの事の是非を言うつもりは無い
誰しも、我を存在せしめてくれた母を思慕するのは当然であり、やはり母は特別な存在である
ただその母にこだわり続ける心がなぜ問題なのか?と問いかけているのである
結論から言うと「生きることに疲れる可能性が高い」
つまり、社会の中で生きていくことが非常にストレスフルに感じやすい傾向にある
ゆえに、「母子分離」をすることが要請される
 
母子分離をするとは、生身の「母」を諦め、対象化すること
母そのものに求めても得られないと諦め、その母の場を空無にすること
そうすれば
その場はどんなものでも埋められる、無限に拓かれた場となる
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
【2011/09/24 08:21 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
母とは禁止されたものの別名である

すべては母から生まれる
生まれる=二度とは戻れない=楽園からの追放→回帰を切望する
母の胸に抱かれ、安心しておっぱいを吸う
許されるのは一体どのくらいの期間だろう?
兄弟姉妹が生まれ、おっぱいを奪われる
その小さきライバルをにらみつける眼差し
陰でいじめようとする
いつまでも甘えるな!
と禁止される
一人歩きを要求、時には強要される
 
「母」は大なり小なり、禁止される対象としてある
 
しかし、どの人の根底にも「母への郷愁」がある
叶えられなかった「怒り」がある
「悲しみ」がある
それが日々の語らいの中に見え隠れする
 
人は決して諦めないようだ
もしかしたら、、、いつかきっと、、、
一分の望みを決して捨てようとはしない
 
「あなたが思うような母はドコにもいない」
と、何度繰り返しても決して断念しない
なぜそれほどまでに狂おしく求めて止めないのか?
 
禁止された存在であるがゆえに
二度と戻れぬ場所であるがゆえに
 
楽園に居ることを求める限りそこから逃れる術はない
だからこそ、禁止の法を立てるのである
しかし、その禁止の札があるからこそ、そこに立ち戻ってしまうものでもある
ゆえに、禁止の法の世界の住人となることでかろうじて楽園を断念させられる
 
法は楽園への回帰を禁止し、一方では楽園のありかを示すものともなる
そして、禁止されるがゆえに、その向こうにある楽園を思い描くのである
生まれた限りはもう元には戻れない
しかし、時空を自由に旅することのできる精神はその限りではない
ゆえに、禁止の札を立てざるを得ない
なぜ、それほどまでに禁止の法が必要なのか?
それは社会の崩壊に繋がることだからである
 
社会参入の第一歩が「母からの分離」
母とは求めても永遠に手に入らないものの代表となる
つまり「母とは禁止されたものの別名」である
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
【2011/09/21 09:37 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
侵入されるイメージ
家には玄関のドアや扉があるように
例えて言えば、人の心にも扉が必要であろう
自分の意志でその扉を開閉する、主導権は自分が持っていることが大切である。
当たり前のようだが、
扉がない
あるいは扉はあっても閉じることを知らない
開けっ放しであることに気づかない
また、扉を閉めていても鍵のないと言わざるを得ない人たちがいる。
 
これらの人たちは侵入される、のぞかれる、見られるイメージを持っている場合が多い。
逆に侵入されるイメージを持っている人は上記のようだとも言える。
 
こういったイメージは
実際に住んでいる家や部屋の状態にも反映されているかもしれない。
例えば
鍵がかけられる自分だけの部屋がなかったり
誰かと共同の部屋だったり
通り抜ける部屋であって鍵をかけられない部屋だったり
まったく自分の部屋がなかったりする。
 
これでは安心して過ごす時間を持てない。
いつも誰かの視線を感じたり、出入りがあって落ち着く時がない。
特に思春期にこの状態が続けば「個の確立」は難しくなるだろう。
自分と他者の境界ができにくい環境と言える。
 
心の扉を自分で開けたり閉めたりするイメージを持つこと。
扉が開いたままだから、外からの声や音はより大きく勝手に入ってくる。
一人で居たい時は、扉を閉め、
外の空気を入れたい時、景色を見たい時、声を聞きたい時には開け放てばよい。
自分の心の扉は、自分の自由意志で開閉するものであることに気づくだろう。
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/ 
 
【2011/09/16 08:56 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
記憶のない時代を埋めるもの

人はどんなに記憶を遡っても、ほとんどの人は2歳以前の記憶は思い出せないだろう
まだ言語をしゃべれない時代の事は、周りの人から聞いたり
ビデオやDVDなどの記憶媒体を通してしかたどれない
どんなに聞いたり見たりしても、生(ナマ)の自分を味わえない
 
その時、目の前に2歳以前の乳幼児が現れたらどうだろう?
世話をしてもらわないと生きることさえ危ぶまれる赤ちゃん
あるいはよちよち歩きで、思うように自分の身体も操れない幼児
喃語をしゃべり、なにやら指さして無邪気に笑ったり泣いたりする
そんなリアルタイムな姿の中に
かつての自分もこんなであっただろうか?
きっとこんなであったに違いないと思いを馳せる
 
自らの記憶のない時代をそこに見出す
そして、自分がまぎれもなく生まれて以来途切れることなく
現在まで続いている存在であることを確信させてくれる気がする
そして安心する
 
笑っても、泣いても、何をしても可愛いと思える
かつての自分も同じような眼差しで見つめられたに違いないと思いたい
否、きっとそうであったに違いない
 
こんな想いが「孫は無条件に可愛い、我が子とはまた違う」
と、おじいちゃん、おばあちゃんに目を細め、声を揃えて語らしめるのであろう
 
それほどに、人は自分自身の記憶のない時代に対する郷愁とでもいえるものを持っている
逆に言えば、記憶のない時代を何としてでも補わないと不安な存在だとも言える
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
【2011/09/15 07:36 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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