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誰もがいつかは必ず行き着く『死』
それぞれに原因・理由があることだろう それらの原因や理由はさておき 『死』が他者に与えるものは何か? と問いかけてみよう 一つの例として 永遠に消えることのない刻印を残す 特に突然に、あるいは若くして死す場合には その『死』そのものの刻印としてだけでなく 永遠に止まった時の姿のままで保存される 永遠に年をとらず 残された他者の心の中に刻印される 他者がどんなに厚い抱擁をしてくれたとしても どんなに愛していると囁いてくれたとしても それが永遠である保障はどこにもない しかし 『死』は永遠に消えない刻印を ある特定の人の心の中に刻み込む そして その人の心の世界では永遠に年をとらずに生き続ける 深い悲しみと 永遠に生身に触れることのできない事実 時空を超えて まるで刺青のように消えない 痛みが消えたとしても イメージとして焼きついている そして いつか そのイメージに新たな「名前」をつけよう 自分固有の名前を! PR |
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電車に乗っていると
やたらと鏡を持ち出して顔や髪型をチェックしている あるいは 化粧のフルメイクをしている女性もいる こんな光景に出くわす いつもバッグの中には手鏡が入っているらしい 女子高生やお勤めの女性などなど 最近は 男性も手鏡を持っているらしい 犯罪行為のためは別として 身だしなみのためらしい これらは 鏡に映る身近らの姿を気にする行為 過剰に何度も見たり 手放せないというのは なぜだろうか? 自分という「一つのまとまりイメージの確認」と言えないだろうか? つまり 鏡を見て 間違いなく自分は一人のまとまりある存在である との確認作業 鏡を見て確かめないと不安になってしまう 言い方を変えれば 自分の理想の姿であることの確認作業 それが崩れていないことの確認作業 それを何度も確かめないと不安になってしまう それは 人の眼を気にするというよりも 自分の描く姿のまとまりで有り続けることの確認 それが壊れてしまうことへの不安がある では、なぜそこまでして頻繁に確認作業をするのだろうか? それは 自分の中に自分を肯定するイメージがないから だから 外にある鏡で確認するしか 不安を払拭する方法を知らないのだ 何度も何度も確認しないと 不安で仕方ないのだ 化粧の崩れは、自己イメージの崩れだと思っている だから 必死の想いで 何度も何度も 繰り返し、繰り返し 崩れていないことを確認するのだ 鏡を手放せない人 気になって仕方ない人 精神分析と言う鏡で自分の統一像を手に入れませんか? シニフィアン研究所の<むかい あい>までどうぞ http://signifiant-lab.com/ |
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「虚しい」
「何をしても虚しい」 このように語る人がいる この虚しさは何だろうか? どういうことなのだろうか? 虚しい=むなしい=空しい つまり カラッポ=中身がない スカスカ=連続していない 詰まっていない 積み重なっていない それは 底に穴が空いている 受け皿がないから流れてしまう だから、怖くて
前に進めない
思いっきり走れないのだ
まさしく【精神の骨粗しょう症】である 穴が空いているのなら、それを塞ごう 受け皿が無いなら、作ろう 繋がっていないのなら、繋げよう そうすれば 積み重なっている・繋がっている実感が持てるだろう 積み重なっている・繋がっている実感があるとは? それは時間的・空間的存在であること 時間が連続して積み重なり 空間的にも存在している実感があること つまり 歴史的存在であると思えることでもある それを持てたら 虚しさは充実へと変わってゆくだろう 空虚感、充実感に興味をもたれた方は シニフィアン研究所 <むかいあい>まで http://signifiant-lab.com/ |
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最近、2件の【孤立死】のニュースが報道された 【60代の夫婦と30代の息子餓死か?】 【40代の母親病死、4歳息子衰弱死】 「これからも増える孤立死」 「都会の孤立死」 など、ワイドショーでも取り上げられているようだ ・公共機関がどうして気付かなかったのか? ・近所の人は知らなかったのか? ・生活保護の手続きをすれば良かったのに ・個人情報保護の関係で入り込めない ・そこまで行政は立ち入れない ・住民登録されていないので、対象外になっていた ・保育所を辞退された などなど 孤立してしまうのはなぜか? 二つのニュースの話題から離れて考えてみたい ①孤立する側 『コミュニケーション障害』と言えるのでないか? つまり 自分の思いを他者に伝える、相談することができない コミュニティーに参加することができない= 社会性の獲得がされていない 「他者に知られたくない」 「知り合いがいない」 「相談できる人が近くにいない」 などが考えられるかもしれない しかし これらの事情が問題ではない なぜなら どのような事情があろうとも、 他者に相談したり、助けを求める人は、たくさん居るし メッセージを伝える手段は、たくさんある まして、窮状であれば尚のこと それをしない、できないのは 『コミュニケーション障害』といえる ②社会の側 『自分は孤立する側ではない』と宣言する 「自分は孤立していないか?」 と問いかけなかっただろうか? 人は、何か好ましくないことを目撃したり、聞いた時 「自分はどうか?」 と、問いかけ 「自分は大丈夫、違う」 と、思い(信じ)安堵する 「自分は違っている」と思い 「私は、違います」といち早く宣言する そして自分から遠ざけようとする それが、例えば 「気の毒に」 「可哀想に」 「どうして回りは気付かなかったのか?」 「どうして行政はもっと早く何とかできなかったのか?」 の語らいとなる このように 人は誰でも、自分にとって都合の良いことは まるで自分がそれであるかのように振る舞い 反対に 自分にとって不都合なことは 自分には関係ないかのような距離から見る傾向がある これは 意識的である場合もあれば、無意識的である場合もある 人は怖れているのだ 何よりも自分自身を だからこそ 同情し、涙を流し、怒り、時にはこぶしを振り上げる 「孤立死」 このことについて、どのような考えを持っていますか? あなたは「孤立死」の可能性がないと思いますか? シニフィアン研究所のHPも参照ください http://signifiant-lab.com/ |
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全てを捨てることは、全てを手にすること
そして、全てを手にしていないことでもある 「捨てる」には、その前提として 「手にしている(持っている)」自覚が必要 言葉を換えて言うと こだわりを持っていることに気付くこと 何らかの形あるものを持っているだけではない これだけは譲れない、こだわっていること これらに気付くこと これが案外大変なエネルギーがいる こだわりを持っていないつもりでも 実はたくさんのこだわりを持っている それらに気付く一つの方法 すべてに「いいよ」「はい」と言えるだろうか? 言えないとするなら、それはこだわりをもっていると言える こだわりとは 自分なりの意味づけを持っているということでもある その意味付けが、他者と違っているとき 「いいよ」「はい」と言えなくなる それらを一度、すべて捨ててみる こだわりを持つことの是非をいっているのではない 自分がどのようなこだわりをもっているのかに気付く その一つの方法をいっている そして 気付いたなら 一度手放してみる つまり、相手の意味づけに沿ってみる そうした時 何を感じるだろうか? 何が見えてくるだろうか? 自分なりの意味づけが見えてこないだろうか? 捨てるとは、そのものと自分との間に距離(時空)を持つこと すべてに距離を持つことは すべてを選択できることでもある 全てを捨てられたなら、全てを手にすることができる つまり 何ものをも選択できる自由を持つことでもある 一度捨ててみませんか? シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/ |
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