忍者ブログ
  • 2025.06
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • 2025.08
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/07/02 09:54 】 |
死なないために生きない
これは強迫神経症者の生きる世界だと言われる
「私は生きているのか?死んでいるのか?」
この問いかけの前にいる
いつも「死」を巡っている

もちろん肉体的な死を言っているのではない

精神的に生きているのか?死んでいるのか?
この問いかけに疲れてしまっているのだ
この問いかけから逃れる方法はないのか?

そうだ!
生きているから「死」がやってくる
だとしたら
いっそ死なないためには生きなければ良いのだ

そう
生きていなければ死ぬことなどないのだ
生きていると思うからこそ、死を考えてしまう
生きていないとしたら、もう死ぬことなど考えることもない

こうして、生きることを止めてしまう
そして、ある儀式に熱中することで時間を構造化する
それを強迫観念や強迫行為と呼ぶ
「~ねばならない」
「~すべき」
この世界から離脱しない限り、そこから逃れられない
 
あなたの精神は生きていますか?

お問い合わせは
シニフィアン研究所までどうぞ  http://signifiant-lab.com/
PR
【2012/01/16 17:13 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
手放すことで自由を手に入れる
手に入れたものは、手放したくない
元からあったものでも、無くなることは寂しい
ましてや、自分が欲しくて苦労の末に手に入れたものは
決して放したくないし、失いたくない

自分が特別欲しいと思っていないものでも
誰かが欲しいと求めたら、手放したくないと思うものである

とかく人は、「失うこと」「手放すこと」に抵抗する
「失うこと」「手放すこと」は喪失に繋がるからだろう
こだわりを持つことも同じ
どうして、それほどまでに「喪失すること」に抵抗するのだろうか?

実は、失い、手放し、こだわる「もの自体」に喪失感を抱いているのではない
その「もの」や人を通して、自分自身を喪失すると感じてしまうからではないだろうか?
その代表が「形見」
その「もの自体」は、どこにでもある「もの」かもしれない
しかし、その「もの」を通して、自分と誰か(何か)との関わりを想い出せさせる
それを見たり、触れたり、聞いたりすると
まるで、遠い昔にタイムスリップしたようになる
その時、その人はその「もの」と共にあった時代(過去)を生きている

だから、その「もの」を大切にし、決して失いたくないと思う
それが無くては自分が居ないのと同じだと感じる
だから、決して手放さないのである
過去の自分自身でもあるのだから

言い方を変えると
その「もの」に捕らわれている
だから手放せない、捨てられない
だから、こだわる
その人の時は、永遠にその時(過去)に留まっている
今を生きていない
精神は死んでいる

そう言えないだろうか?

敢えてその「もの」を捨ててみよう
手放してみよう
きっと「自由」を手にするでしょう

お問い合わせはこちらまでどうぞ
シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/
 
【2012/01/15 18:44 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
誰かの役に立ちたい
「喜ぶ顔が見たい」
「誰かの役に立ちたい」
「元気をもらった」
「勇気をもらった」
という言葉をよく聞く

これらの言葉は何を語っているのだろう?

相手から「もらうこと」を期待していないだろうか?
誰かのためではなく、自分のためではないだろうか?

喜ぶ顔を見て、自分が喜ぶ
誰かの役にたったから、自分が嬉しい
共に喜ぶことの素晴らしさ、充実感を味わえる
と言うかもしれない

では、逆に
自分が喜びたいから、しているのではないか?
自分が充実感や達成感を味わいたいから、しているのではないか?
この質問に対して、どのように答えるだろうか?
答えはたぶん出ないだろう

それなら、いっそ
「自分がしたいからする」
「自分にはできるからする」
ではどうだろうか?

一方
勇気や元気は、誰かからもらうものだろうか?
自らの内から湧いてくるものではないだろうか?
誰かや何かの刺激を受けて、
自分の中から湧き上がってくるものではないだろうか?

「したいからする」よりも「欲しい、欲しい」
そんな声が聞こえてくる気がする
「欲しい」から「する」に書き換えたら
きっと、世界が違って見えてくるに違いない

「欲しい」から「する」へ
書き換えてみませんか?

シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/
【2012/01/06 21:48 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
今年のテーマ(2012年をどう生きるか?)
2012年辰年がスタートした。
年頭に当たって、個々人のテーマを規定すること。
それぞれの立場や状況に於いて規定すること。

自己規定する=目標設定すること
つまり
言語化すること

【まず、言語ありき】
それに従って、その意味するところをイメージし
ビジョンを持ち、それを行動化する

【成長】
人は成長してゆくもの
それは
千変万化する
固定化しない
留まらない
古きを壊して、新たに創造してゆく

【未完】
永遠に到達できない
終わりの無い
だけど
ソレを目指してゆく

ソレとは?
始原にあったもの
そして
今は永遠に手に入らないもの
しかし
手の届きそうな彼方にあるもの

ソレが動因となり、牽引する
ソレが何なのかは既に知っている
しかし、語れない
そして
どんなものでもあり得る
どこにでもあり得るもの

だからこそ
すべては未完
だけど
それを目指して生きる
言語に置き換えて

それが「自己規定」
自分固有のもの

自己規定しないと
それは
糸の切れた凧
風に任せて彷徨うしかない
流れに翻弄される浮き草
根無し草
夢遊病者

人間になりたい
人間でありたい
人間として生き続けたい
人間として死にたい

【私は人間だ!!】


ご意見・ご質問は
シニフィアン研究所<むかいあい>まで
http://signifiant-lab.com/
【2012/01/04 20:28 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
その一歩を踏み出すためには「決断する」だけ!
何かをしたいけれど、
「それができる状況ではない」
「しがらみがあってできない」
「勇気がない」
「協力者がいないからできない」
など、それぞれの理由をあげて、現状を変えられないと言う
確かに、どうしようもできない理由もあるかもしれない

しかし、
勇気があるから、踏み出せるのだろうか?
状況が整っているから、出来るのだろうか?
何のしがらみもないから、飛び出せるのだろうか?
協力者があったら、できるのだろうか?

一歩を踏み出す人と、踏み出さない人との違いは何だろう?

「勇気」でも「状況」でも「しがらみ」でも「協力者」でもない
それは「一歩を踏み出す」と決める事=決断する事
「それをする」と決断する事
ただそれだけ!

決断すれば、後は実行するだけ
それに向かって努力する
成功するためにどうすれば良いか、知恵をしぼって考える
試行錯誤しながら、学ぼうとする

その意欲が、必要なものや人を引き寄せる
必ず、協力者が現れる
必ず、必要な知恵を見出す
しがらみがあっても、それを断ち切れる
勇気が湧いてくる
困難な状況も打破できる
どんな困難や障害があろうとも、必ず向こうから避けてくれる

必要なことは
ただ「やる!」と決断するだけ
そうすれば、必ずそのための一歩を踏み出せるだろう
決断すること、それを人は勇気と呼ぶ

踏み出せない人、決断できない人は
シニフィアン研究所まで、ご相談ください

シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/
【2011/12/25 20:27 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
<<前ページ | ホーム | 次ページ>>