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【2025/07/05 12:13 】 |
登録すること 1+1=1 1-1=1
誕生と共に社会に登録される
国民の一人として
地域の一人として
家族の一員として
両親の子どもの一人として
一人の人間として
一人の男、もしくは女としてetc
 
最初は登録される
自らがそこに参加することは不可能である
 
そして
それらを当たり前のように生きているが
幾度となく問いかけられる時がやって来る
あるいは
常に人は問いかけ続けられているのかもしれない
 
まずは
この世に生きるに値する存在であると、自ら登録すること
次に
人間として登録すること
そして
男である、女であると性別を登録すること
 
例えば
社会という「1」、
人間という「1」、
男、もしくは女という「1」
私という「1」は
「1」という意味では等価
私という「1」が増えても減っても、社会という「1」は変わらない
それでも
社会、人間、男or女という「1」の中に
私という「1」を自ら登録する
 
最初の登録には参加できなかった
だからこそ
自らが再度登録しなおす
そのとき
どのように登録するかは自らの手の中にある
 
我々は生かされている存在である
しかし自ら生きていく存在でもあるのだ
 
他者から規定されたものを
自らが規定しなおすこと
それは、自らの人生を引き受けることでもある
 
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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【2011/11/27 00:21 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
家族とは?
「家族とは?」
こう問いかけると人それぞれに規定の仕方は違うだろう
家族形態も時代と共に変化し、その捉え方も多様化しているといえるだろう
 
昔は大家族に象徴されるように、3世代が同居するのが当然だった
一つには共同作業を必須とする農耕民族ということもある
血縁関係だけでなく、農作業を手伝う他人も共に生活することも稀ではなかった
経済成長と共に、農業漁業などの一次産業から、いわゆるサラリーマンへとその人口が移動し
それに伴って核家族化がその中心となってきた
 
今ではスープの冷めない距離だとか、二世帯住宅が宣伝され
同居はしても食卓、トイレ、風呂は別
その原因はとまれ
昭和20年後半以降の親たちは
子どもたちと同居は考えないとの傾向になっているらしい
では自分達の老後はどうするか?
親の介護問題はどうするのか?
老々介護、介護難民などの言語も見られる
働く女性をサポートするための保育所、託児所の完備など
家族を取り巻く環境は激変してきている
 
そんな中であらためて
「夫婦とは?」
「親子とは?」
「家族とは?」
「家族の機能とは?」
と問いかけてみたい
 
「家族はシステムである」との観点がある
社会にはそれぞれの役割分担があり、一種の組織体系を形成する
その最小集団が「家族」である
家族はある共通の価値観(家族神話)を基に夫婦を核としての場を持ち
生産と扶養、養育、家事などを分担し、家族成員相互が密接に関連しあって構成されている
 
家族はまた、年齢、価値観など異なった世代が同居しているがゆえに
それぞれの世代間による「連合」と「境界」がある
夫婦連合、兄弟姉妹連合など世代間で連合を組んだ時
そこには世代間境界が発生する
例えて言えば
家の構造と同じである
大黒柱がしっかり家自体を支え、階ごと、部屋ごとに仕切りがされ
ドアや引き戸などで必要に応じて開閉できる
玄関ドアや窓、垣根や塀が家族と社会の境界線ともなる
つまり
個人、世代、家族、社会、それぞれに境界がありつつ
それぞれが他の構成員に互いに影響を及ぼしながらも
より大きな集団へとかかわりを持っている時、
家族は健全に機能しているとみなす
 
家族成員の誰かが問題を起こした場合
他の家族全員に何らかの影響を及ぼし、家族のシステム自体にも変化が起こる
ゆえに、その成員個人の問題だけではなく、家族のシステムの問題であるとの捉え方をする
つまりその成員は病める家族を代表して家族の機能不全を警告していると見なす
この観点から
男女が結婚と言う社会的契約を結んだ時(新婚期)から
家族がどのように発達してゆくのかを考えてみる
 
 
夫婦問題、介護問題などに興味のある方は
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら  http://signifiant-lab.com/
【2011/11/07 15:45 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
強迫性格は精神を不毛にする
「強迫症状」と呼ばれる症状がある
バカらしいと思っていてもソレをしないと居られない
ソレをしないと落ち着かない、気がついたらしてしまっている「強迫行為」
例えば
手や体を何度も洗ってしまう、玄関や窓の鍵やガスの元栓を何度も確認する、
決まった順番や場所に必要以上にこだわるなど
 
自分の意志に反してある観念が湧いてきてしまう「強迫観念」
例えば
事故や不治の病になって死んでしまうのではないか
人を傷つけたり、殺してしまうのではないか
自分や家族に何か悪いことが起こるのではないか
誰かに襲われるのではないか
 
これらの根底には共通したものがある
それは強い「不安感」
ソレをしないと不安で仕方ない
それらの不安が常につきまとっている
本人はつまらないことにこだわっていると解っている
やめようと思っているがどうしてもしてしまう、浮かんでしまうのだ
 
なぜ?
その不安とは一体何だろうか?
強迫行為や観念によってそれほどまでに防衛しなければならない不安とは?
 
不安の中は空洞であること
空無であること
不毛であること
それらを無意識的に知っているからではないだろうか?
この不安は人間であるゆえにすべての人が抱え込むものかもしれない
不毛であることの防衛が強迫症状
そしてこれらの強迫症状がより一層
その内奥の不毛を強化していることになっていると言えないだろうか?
 
シニフィアン研究所のHPはこちら 
【2011/11/06 12:02 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
言語が通じない
日々の生活の中で、大抵の日本人は日本語を話している
そして、その日本語という共通言語を使って
意志の伝達や感情の表出をしている
 
時には
言いたいことが相手になかなか伝わらずイライラすることもある
しかし、原則的には日本語を使って話をすれば通じると思っている
 
言語が通じるとは一体どういうことだろうか?
相手が自分の言語を理解する
つまり、自分の話している意味を相手が理解する
ここまでを「言語が通じる」と言うのなら
たぶん同じ言語を話していれば通じると言えるだろう
 
だが、これでは十分とは言えないのではないか?
相手が自分の話す言語の意味を理解し、その意味に対しての何らかの言動(反応)をする
もっと言えば、「相手が自分の言語を理解しその内容の通りに行動する」
ここまでを含めて初めて「言語が通じた」と言えるのではないだろうか?
 
例えば
子どもがお母さんに
「お母さん、ジュースちょうだい」と言う
するとお母さんが
「またジュース?そんなに飲んでばかりダメよ」
「同じ飲むなら牛乳にしなさい」
「そんなに飲んでばかりいるから汗かくのよ」
などと言った場合、そしてこのようなパターンが常であった場合
子どもは何を学習するだろう?
 
「お母さんには何を言ってもダメだ、自分の言うとおりにはならない」
そう思わないだろうか?
つまり
「自分の言語がお母さんには通じない」
ということを学習していることにならないだろうか?
 
このように見てくると
様々な場面で「自分の言語は通じない」という体験をしている
だとすると
やがて人は語ってもムダだと思うようになるだろう
そしてついには何も語らなくなるだろう
 
人は語れないのではなく語らないのだ
語ってもムダだと知っているから語ることを断念した
それでも人は伝えずにはいられない
語らずにはいられなくなる
言語で語らなければ
体で語るしかない
行動で語るしかなくなるのだ
それが病気や怪我、問題行動と言われるものではないだろうか?
 
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
【2011/11/05 12:34 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
「したい」「できたらいいな」は何も実現できない
「○○できたらいいなあ~」
「○○したいなあ~」
「○○欲しいなあ~」
だれでも、考えたことがあるだろう
しかし、このように考えているうちは何も実現しない
 
なぜなら
これらの言葉の後には必ずと言っていいほど
「でも、、、、、」
「しかし、、、、」
「だけど、、、」
が続く可能性が高い
 
そして
「やっぱりだめだ」
「やっぱり無理だ」
「やっぱり難しい」
となる
 
このように堂々巡りをし
そして落ち着く先は
「やっぱり止めておこう、いつかできる時がきたらまた考えよう」
 
時は待ってくれない
今したいことがあるなら、今する
今欲しいものがあるなら、手に入れる
今なりたいものがあるならば、なる
そのように「決断する」ことだ
すべてはそこから始まる
 
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【2011/11/03 11:44 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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