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シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析で心身の悩み相談をしています。 「誰でもよかった」との殺人事件が増えています。 記憶に新しい事件は <大阪・ミナミの路上で通行人の男女が刺殺された通り魔事件>でしょう。 「自殺できなくて、人を殺せば死刑になると思った」 など、理解不能の理由です。 事件を離れて、 今日は、『誰でもよかった』を考えてみたいと思います。 「誰でもよかった」に続く言葉を考えてみます。 *抱き締めて欲しかった
*聞いて欲しかった
*結婚したかった
*一緒に居て欲しかった *寝て欲しかった *セックスしたかった *触れたかったetc こうして考えてみると ある共通点が見えてきます。 「~欲しかった」「~したかった」 自分には「ない」、だから「欲しい」 この背後には「寂しい」という想いが感じられます。 誰でもいい、与えて欲しい、満たして欲しい このような叫びが聞こえてくる気がするのです。 本来なら、ある特定の人に求めるのではないでしょうか? 大好きな人、愛する人が居たなら そして、その人が与えてくれるのなら 誰よりもその人に 抱き締めて欲しい、聞いて欲しい、一緒に居て欲しいと願うのではないでしょうか? それが叶わないから もう誰でもいい そのように考えるのではないでしょうか?
「誰でもいい」ではなく「あなたでないとダメ」と言える人が居たなら
「誰でもいい」ではなく「あなたならOKしてくれる」と思える人が居たなら きっと、その人に向かって「~欲しい」と言える 例えば 「あなたの側にいたい」
「あなたの手料理が食べたい」
「あなたと結婚したい」
決して 「誰でもいい」なんて言わないのではないでしょうか?
「誰でもいい」という言葉は、
誰も受け止めてくれる人が居ないと思っている人が語る言葉ではないでしょうか?
「あなたでなければダメ」と言える人が居ますか?
「あなたでなければダメ」と言ってくれる人が居ますか?
もし居ないなら、欲しいと思ったなら
シニフィアン研究所までご相談ください。http://signifiant-lab.com/ 勉強会・相談会・講座もしています。http://signifiant-lab.com/#10 PR |
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シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析で心身の悩み相談をしています。
今日は「罪責感 その2」について書きます。
前回の「罪責感」は解らないとのご意見がありましたので、 今回はその2として書いてみたいと思います。 まず、罪責感とは何でしょうか? 「見る(監視する)自分」と「見られる(監視される)自分」との葛藤から生まれると言われます。 誰にも「良心」があるとされます。 これが「見る自分」=「監視する自分」です。 そして、その「見る自分」に「見られるもう一人の自分」がいますよね。 この二つの自分が葛藤したとき、緊張が生まれ それが「罪責感」だというのです。 この「罪責感」は元々あったのでしょうか? ないとされています。
では、いつ生まれるのでしょうか?
「親の禁止」がその最初だとされます。 日々の体験の中で、 親からの「ダメ」を子どもは自分の中に取り入れます。 「禁止」とそれを守ることで「誉められる」 その体験が、より一層子どもの心に「監視する自分」を発達させます。 これらの上に、 「しつけ」や「決まり」「秩序」「法」などが幾重にも重なっていくとされます。 これが、基準となって「良心」「道徳心」あるいは「常識」などを持つことになるのです。
この観点から
周りの大人たちがいかに「しつける」かが大きく影響すると考えられます。 厳しく躾けすぎると「恥」「怯え」を学んで、 人の眼を気にしすぎるかもしれないし
躾がされないと、決まりや法を守らない可能性があります。
このように考えていくと
「罪責感」は人間の心の中の葛藤であり、
自分で自分を律するためにも、社会の中で生きていく上で必要なものだと言えるでしょう。
反面、あまりにも強すぎると 人の行動や性格に厳しく制限を与え、萎縮させてしまう可能性もあるでしょう。 罪意識の重圧に潰されてしまう恐怖から逃れる方法を、持っている必要があるのかもしれません。
時には、体を使って吐き出す必要があるでしょう。
スポーツをしたり、絶叫マシーンに乗って叫んだり、 お神輿を担いで暴れたりするのも、その一つでしょう。 そうすると
ゲームなどバーチャルの世界に没頭するのも
現実世界で吐き出す方法が見出せないからだと考えられないでしょうか?
また、大人になって
お酒やセックスに溺れると、依存症になる可能性がありますから
注意が必要です。
反対に、「罪責感」をうまくコントロールできない場合
前回にも書いたように 他者から「罰」を与えられることによって、自分を律する方法を選択する場合がある それが、自ら苦難を選択したり 時には犯罪という方法で、法によって自らを処罰する可能性も考えられるのです。 また、難しくなりました。 「罪責感」は必須でありながら、
時には、
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シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析で心身の悩み相談をしています。
今日は「罪責感」について書きます。
「罪責感」は罪意識を感じて自分を責めること。 精神分析的には、無意識的なことによるとされますが、 ここでは、「罪責感」から自分を処罰するに至ることがある、ということを書きたいと思います。 少し、難しいかもしれませんが、お付き合いください。
叱られると分かっていながら、悪いことをする
嫌われると分かっているはずなのに、言ったりしたりする このような人(子ども)がいます。 まったく学習しないと思うかもしれません。 一方、 自ら苦難の道を選択する人も居るし、 次から次へと難題が湧いてくる人が居ます。 自分でも呆れるくらいだと言います。 どうしてでしょう? これらのことを、「罪責感」ということから考えてみたいと思います。 自分でも理解できない、何らかの罪意識を持っていると仮定します。 もうそれは意識には上がってこないものとします。 その「罪意識」によって 「自分は罪を償わなくてはならない」と考えます。 自らどのように償えば良いのか解らない。 その結果、自分に苦痛を与えたり、誰かから罰せられることによって償おうとする。 強迫行為や観念、重篤な病気や苦難、犯罪まで犯すに至るとフロイトは考えました。 (フロイトは、精神分析の創始者です)
そのように考えたら、少し理解できることはないでしょうか?
意識の中では、だれも苦しいことや辛いことは嫌だと思うでしょう。 なのに、いつも背負い込んでしまう、選んでしまうとしたら どこかに「罪責感」を持っている可能性があると考えてみてはいかがでしょう? あるいは何らかの「罪意識」や「負い目」を持っているかもしれません。 自分は悪いことをした、 だから幸せになってはいけない、罰を受けなければいけない。 その無意識的な何らかの「罪責感」が 自らを不幸へと追いやるように、誰かに求めているのかもしれません。
いつも、同じパターンで叱られる子どもも
「かまって欲しい」だけではなく 「ボクは悪い子なんだ」と思ってしまっているのかもしれません。 自分や家族にそのように感じられることがあるなら 一度、このような観点から考えてみてはいかがでしょうか? なるほどと合点がいくことがあるかもしれません。 なお、フロイトが言うように それらが無意識的なものなら、「精神分析」という方法で明らかにできるでしょう。 なぜなら、精神分析は「無意識」を知る方法だからです。 興味をもたれた方は シニフィアン研究所のHPを参照ください。http://signifiant-lab.com/
次回は「人見知り」について書く予定です。
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シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
今日は「共感」について書きます。
また、「共感」してもらうことは、自分の感情や想いが相手の中に映されたとも言えるでしょう。
しつこいかもしれませんが、 次回は「罪責感」について書きます。 |
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シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
今日のテーマは「愛―エロス的交流」です。
ブログ197)自己愛(ナルシシズム)ーエロス的交流 |
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