× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
![]() |
人は鏡の世界に閉じ込められている
その世界からいかに脱するか?
ナルシシズムの語源とも言われる「ナルキッソスの神話」のように
水面に映った自分の姿に魅了され、そこから離れることができず
やがて衰弱し死んでゆく
鏡の中の姿は虚像であり、自分と言う実像はこちら側にある
これは自明のことだと言うかも知れない
では
テレビや雑誌などの宣伝に乗せられて衝動買いするのは?
「〇〇すればあなたも△△のようになれる」
の言葉に、映像に自分の姿を重ねて見ていないだろうか?
Aさんがブランド物を買った―私も欲しいと無理をして買う
Bさんが家を新築した―羨ましいと思うと同時に嫉妬する
数えあげればきりがない
他者という名の鏡に映った自分の姿を見ている
まるでそれが自分であるかのように錯覚している
同じ服装や髪型をすれば、その人になったかのようだ
セレブご用達とのキャッチコピーに振り回される
自分が実像で鏡の像は虚像のはずだが
いつの間にか虚像に振り回されてしまっていることにも気付かなくなっている
このようにして鏡の世界に閉じ込められた夢見る幻想世界の住人となる
他者が望む虚像に同一化し、自分と言う実像を虚像に置き換える
鏡のトリックに騙され、それさえも認識できなくなってしまっている
幻想の世界を映す鏡を破壊せよ!
夢見ることの是非を言っているのではない
ありのままの自分を映す鏡を持ち、しっかり現実を見つめる勇気を持とう
自分が居る世界と鏡の世界の混同から抜け出そう
それが自己認識への第一歩である
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
PR |
![]() |
子育てはある種の闘争だと思える時期がある
代表的な最初は「トイレットトレーニング」
「オムツの中にしたい時にする」垂れ流し VS 「決められた場所でする」コントロール
親の側では「いかに程よく躾けるか?」がテーマとなる
子どもの側では、決められた場所でするしないを選択する権利を得ることで
親をコントロールする(振り回す)ことを学習する
この両者の闘争とも言える時期に厳しく躾けすぎると「無力化」の基礎を作ってしまう
自分の思うとおりに躾けられないと、親は自分の無力を感じる
この無力感を否認するべく、是が非でも躾けることに躍起になる
失敗したらお尻を叩いて怒る
特に夜は無理矢理起こしてトイレに連れてゆくetc
威嚇と体罰で従わせようとする
それに対して子どもは、泣きわめきや暴れ、時には「おねしょ」で対抗する
それでも強大な親の躾けの前に屈したなら、自分の「無力感」を味わてしまう
闘争の結果、子どもは「敗者」になったのだ
これらの上に、「躾け」という名の支配が重ねられてゆく
「~しなさい」
「~したらダメ」
圧倒的強者の前に屈することを刻印付けられ
親の言うことをよく聞く、従順な良い子が出来上がる
ココに至って、親の支配は完成する
以後、素直な良い子の仮面が子ども自身をコントロールする
「~ねばならない」
「~すべき」の仮面が締め付け、ますます無力化を推進することになる
この事実に親も子も気付くことは非常に難しいものとなる
自分は敗者だと常に感じていないだろうか?
自分は無力だと常に思っていないだろうか?
行き過ぎて「虐待」や「ネグレクト」になっていませんか? 少しでも心配な方は、お気軽にこちらまで相談ください。
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
|
![]() |
NOの言えない日本人
なぜ「NO」が言えないのか?
・相手の事を考えて
・断ったら悪いから
・あんなに一所懸命してくれるから
・気を悪くするのではないだろうか
・次に会った時に気まずくなるから
・普段お世話になっているからetc
どんな思いが浮かんだろうか?
NOを言うこと=断る=相手を否定する=自分を否定する
この図式がどこかにあるからではないか?
NOを言うのは、今提示されている事柄に対しての自分の意志表示であって
その人を否定することではない
たとえ、そんなことを言う相手が嫌いだと言ったとしても
その人の全てを否定した訳ではない
部分を全体だと聞いてしまうと「NO」がなかなか言えない
たとえば
「嫌だ、嫌いだと言われたからもう二度と口をきいてもらえないかもしれない」
「この間嫌いだと言っていたのに、今仲良くしてるなんて訳分からん」
こんな風に感じてしまう
これは
NOと言ったこと自体(その人の部分)と、その人自身(その人全体)との弁別がないからだ
その人=自分自身
この図式があるから、NOと言うことは自分がNOと言われたと等価となる
つまり
何らかの陽性の思いを持っている相手=自分を投影した姿=鏡の中の自分
好きな相手は自分の理想の姿となる
だから、その人に「NO」と言うとそのまま自分に跳ね返ってくる
相手を否定することは、とりもなおさず自分を否定することと感じてしまう
だから「NO」が言えなくなるのである
これを「自他未分化」と言う
「NO」が言えるのは勇気があるのではなく
自分と他者はまったく別の存在であると認識している=自他分化している
からである
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
|
![]() |
「キレる」この言葉が一時期流行のようになったことがある
最近はあまり聞かなくなったように思うが
その状態の人は決して少なくなったとは思えない
キレるというのは、自分の感情を抑えきれず、
腹を立てたり人に危害を加える行動に出ることもある
自分の感情をコントロールできない状態が頻繁に見られること
いわゆる「感情爆発傾向」にある人
自分の思うようにならない時
イライラや腹立ちの感情が湧いてくるのは当然
その感情をどうするか?
つまり処理の仕方が問題となる
「すぐ腹を立てる」「怒鳴る」「殴る」「暴れる」などの行動で処理すると
キレやすいと言われる
ではなぜキレるのか?
「言語化できないから、行動化する」と言える
その時の自分の感情を適切な言語に置き換えられたならキレる度合いが減る
適切な言葉が見つからないから
感情をそのまま吐き出すしかない
たとえば
「アホ」「バカ」「ボケ」「クソ」「死ね」「うるさい」「黙れ」など
そのように思っていないのに口癖のように吐き出してしまう
一言、ワンフレーズしかない、つまり言葉を知らないのだ
キレない子どもを育てるにはどうしたら良いか?
言葉を学ぶ機会を多く持てる環境を整えることが大切だと思う
なぜなら、子どもは真似をすることで覚えてゆくから
(1)本を読む=文章を読む=語彙を増やす
面白いと思う本(文章)の方が良い
(2)時々の場面で適切な言葉を教える
「~がしたかったのにできなかったから怒っているのね」
「~が欲しいのに貰えなかったので泣いているのね」
「そんな時は〇〇と言えばいいのよ」
(3)感情を適切な言葉に置き換える環境が大切
周りの大人が適切な言語を知り、使っていること
「人間は感情の動物だ」とも言われる
時にはキレることもあるだろうし、キレることはいけないと言い切れない
キレることがダメなのではなく
キレることでしか表現することができないことが問題なのである
キレる子どもさんでお困りの方はこちらまでご相談ください。
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
|
![]() |
愛は時には「暴力」ともなる
相手のことが愛おしくてたまらない
だからこそ自分の理想の姿であって欲しい
そのためならどんなことだってする
命だって惜しくないとまで思う
この想いがややもすると、受け取る側には暴力でしかない場合がある
「愛しているからこそ」
「アナタのためを思ってしたこと」
「アナタのためなら何だってできる」など
これらの言葉に代表される
親子、恋人など心理的に非常に近い関係で生じやすい
相手の意志を無視した形となる
ひたすら自分の理想のイメージを相手に添付する
それは自分の理想の姿だから
自分がしたくてできなかった、なりたくてなれなかった姿だから
それを相手に押し付ける
「愛」という荘厳なベールに包んで
あなたのために、私は自分の時間もお金もエネルギーもすべて犠牲にしてきた
だからあなたも私のこの愛に応えるべきよ!
わたしのすべてをあなたに掛けてきたのだから!
与える側が「愛」のつもりであったとしても
受け取る側には「暴力」となることがある
それはなぜ?
それは「受け取る側が求めているものではないから」
≪愛とは持っていないものを与えることである≫ラカン
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
|
![]() |