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絶対親のようにはなりたくない!
窮屈で過干渉で自由のない、こんな家は嫌だ!
早く自立したいと親元を飛び出る
すべてのことに、ことごとく反抗してきた
「やっと自由に、自分の思うとおりに生きられるんだ」
そうして、自分で考え、判断し、生きてきた
決して親のような生き方をしていない、自分の人生を生きていると自負していた
思春期を機に大抵の人は
何らかの親殺し、否定をしてアイデンティティーを確立しようとする
そして、しっかり親(父)を否定し、自分の生き方を規定する
そうすれば、ゆるぎなく個の確立ができ、自分の人生が生きられる
この父の否定をする前に大きな壁がある
それは「母」という巨大な壁
かつては一体であり、肉体的には分離したものの
母子共に干渉し合うのは避けられない
「愛情という名の暴力」ともなりかねない
この母からいかに分離をするか?が大きなテーマとなる
過干渉、もしくは放任となりやすい
どちらにしても「育たない」という意味では等価である
この巨大な壁を打ち砕き、乗り越えようと必死となる
反発し、抵抗し、時には飛び出し、距離をとる
そして、その壁を打ち砕き、乗り越えたつもりになる
しかし、その考え、判断の基準は何だろう?
大なり小なり、母の価値観が基準となっている場合が多い
まさしく「お釈迦様の手の上の孫悟空」
はるか遠くへ来たつもりだったが、結局は大きな手のひらの上を出ることはなかった
まるで
どこまでも伸びる大きなドームのようなゴムの壁だ
少しでも反発や抵抗に疲れ、その力が弱まると、一気に引き戻される
「しまった!!」
と思い、また力の限り遠くへと遠ざかる
しかし、気を緩めるとまた引き戻される
この繰り返しがまるで一所懸命生きているかのような錯覚をもたらす
しかし、ついにエネルギーを使い果たし、疲れ果て、抵抗をやめる
そして、
ゴムの壁はまるで何事もなかったかのように丸いボールに戻っている
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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今のこの辛さ、悲しさ、惨めさは本来の姿ではない
今の私は真実の私ではない
これは現実ではない
本当はもっと楽しくて、嬉しくて、幸せなはずだ
そのために今のこの苦しみがあるんだ
耐えれば耐えるほど、後の喜びは倍増する
だから
今がどんなに辛くても、苦しくても、悲しくても我慢する
これは本当の私の姿ではないのだから!!
「きっといつか、あのシンデレラのように魔法使いのおばあさんが現れて、魔法をかけ、舞踏会へ行き、
王子様が私を捜し出してくれるに違いない。自分から助けてと叫ばなくても、助け出してくれるに違いない」
このように今の辛い、苦しい現実を否認し、ひたすら耐え忍ぶ
これを私は「シンデレラ幻想」と名づけた
特に自力では逃げることも、訴えることもできない環境の中にいる人たち
たとえば、養育されている子どもなど力関係による弱者
虐待されていても、逃げ出すことも、抵抗することもできない人たち
現実否認をし、橋の下幻想やシンデレラ幻想など幻想の世界へ逃避することで
何とか心身を守ろうとする
身体的な虐待の場合は、まだその痕跡が残るために発見されやすい
しかし、言葉や無言の暴力の場合は痕跡が残りにくい
ゆえにその発見とケアが遅れる可能性が高い
明るく、我慢強く、頑張り屋の良い子は危ない!!
ソレ自体が自分でも気付かない「助けて!」との悲痛なメッセージかもしれない
このメッセージを聞きたい方は
シニフィアン研究所のHPこちらまで http://signifiant-lab.com/
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自分の思う通りにならなかったら、誰しも腹が立ったり、悔しい思いをする
何で分かってくれないんだ!
何てわがまま気ままなヤツなんだ!
こんなことなら言うんじゃなかった、するんじゃなかったetc
しかし、よく考えてみると
その種は自分が蒔いている場合が多いのではないだろうか?
ここでいう「自分が種を蒔いている」というのは、
自分の気持ちに素直に従わなかった結果
自分の思う通りにならず、不平不満の気持ちになるということ
つまり、今の自分の不平不満の気持ちは
自分の気持ちに素直に行動しなかった結果であると言いたいのだ
例えば
友達のAさんが「ねえ ちょっと話を聞いて欲しいんだけど」とあなたに言う
あなたは、聞きたくないとしよう
ところが、あなたは自分の気持ちに正直にならず
「今日はそんな気分じゃないなあ、でも友達なんだから聞いてあげないといけないよなあ」
「聞いてあげなかったら、友達じゃないと思われるかもしれないなあ」
「自分が聞いて欲しい時に、聞いて欲しいから仕方ないか」
「もう いつも勝手なんだから!でも、彼女に嫌われたくないよな」
「断る理由がないな」
と考えて、自分のそのときの気持ちに素直に従わなかったとする
Aさんがあなたに話をしてありがとうと言い、あなたも良かったと思えたなら問題はない
あなたが不平不満な気持ちになる場合はどんな時か?
1)長々と話を続けて、アナタの貴重な時間をとられた
2)せっかく聞いてあげたのに、お礼も言わず、ちっとも嬉しそうにしない
3)あなたのアドバイスをちっとも聞かない
4)あなたの聞きたくない内容だった
5)あなたの意見や態度に文句を言った
他にも色々考えられるだろう
あなたとしては不平不満に思って当然だ
しかし、そもそもAさんの話を聞いた結果でもある
だとしたら、最初から彼女の話を聞かなければ今の不平不満もない
そう、「聞きたくない」という自分の気持ちに素直に従っていれば不平不満もないのだ
反論として
「聞いてあげてもいい」と思って聞いても、不平不満の気持ちになるのではないか?
確かに、 あなたの気持ちに関わりなく、1)から5)のような同じ状況になることは十分考えられる
しかし、
状況は同じでも、あなたの受け止め方が違ってくるのではないだろうか?
「Aさんの話を聞こう」と思うということは
その前提として、Aさんを受け入れようという肯定的な気持ちがある
「Aさんの話を聞きたくない」と思うのは
話の内容に関わらず、Aさんを受け入れたくないという否定的な気持ちがある
つまり、肯定的な気持ちで聞く場合と、否定的な気持ちで聞く場合には
同じ内容でも受け止め方が違ってくるのは当然だと言える
これらのことから
今の不平不満の種は自分が蒔いていると言えるというのである
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社会に適応するためにと、幼少期から様々なことを教えられる
「思いやりをもちなさい」
「悪い事をしてはいけません」
「勉強しなさい」
「人に迷惑をかけてはいけません」
「立派な人になりなさい」
「規則や決まりを守りなさい」
などなど
ほとんどが「~しなさい」「~してはいけません」ばかりだ
そして、それが大事で、幸せになる方法だと教えられてきた
法に従うこと、規則を守ることは大切なこと
そのことと
自分が自分の意志に素直に生きることとは別のことである
ところが
他者と違う意見を言ったりしたりすると、わがまま気ままと見なされ
波風立てず周りと同じであることを求められる
その反面、
特に意見はない、皆と同じだと言えば
個性が無い、自分の意見を持っていないと言われる
幼少期からひたすら受身であることを学習してきた
ある時期それは必要な事でもある
しかし、受動から能動への切り替えをする必要がある
その初めが
「嫌!NO!」である
反抗期と言われる時期を通過して、受動から能動へと転換する
それこそが
主体性を持ち、主導権を持ち、社会へ参入してゆく端緒だと思う
どれだけの人が
「あなたの好きなことをしなさい」
「あなたの信じる道を進みなさい」
「あなたはあなたのままでいいのよ」
そう言ってくれただろうか?
思春期の反抗が始まったなら
喜んで言おう
「アナタの好きなことだけをしなさい」と!!
法に従い、規則を守る事の大切さは言わなくとも知っているのだから
それが育てることでもある
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社会の中で適応して生きてゆくためには、法やルールを守ることは必須
それが適応することだし、対人関係もスムーズにゆくことだと教えられてきた
「相手の気持ちを考えなさい」
「相手が何を求めているかを思いやりなさい」
「それが素晴らしい人間である」
そのために、大人から
「~ねばならない」
「~すべきだ」
と、幼少期からしつけられる
確かに
「良い子だね」と褒められる
周りからの承認と賞賛を得ることで、ますます良い子になってゆく
気がついたときには
相手のことを一番に考え、決して決められた枠を壊さないない
適応した真面目で几帳面なルールを守る良い子となっている
主体性を奪われ、自己主張せず、相手の都合に合わせるロボットとなる
ここまでくれば、命令指示をしなくとも自らが自らを厳しく管理する
なぜなら、強固なプログラムが出来上がっているからだ
誰よりもいち早く状況をリサーチし、
どうすべきか、何をしなければならないかを瞬時に判断し
相手が言う前に動く
常にコンピューターが動き続けているのだ
シャットダウンする暇はない
少しでもミスすると、とたんに不安が突き上げてくる
必至になって修正しようとやっきなる
このようにして強迫性格ができあがってゆくのだ
時には過剰適応となり、心身ともに疲弊してしまう
それでも止められない
法やルールを守り、固定化されたレールの上をひた走る
決して脱線しない、ましてやレールから降りることなど考えられない
それしか知らない、それしかできない強迫性格
非常に貧しい空洞化の生き方だとも言える
命令や指示がないと動けず、
それをしてくれる場所や人を求め続ける
もう嫌だと思いつつも、それを壊すことはそれ以上に怖い
溜まったストレスが閾値を越えても、必至にこらえる
それらの一部が漏れ出たのが
「きれい、汚い」に代表される強迫行為や強迫観念などの症状
そこからどれだけ自由になるか?
既存のレール自体を破壊するか?
それは
「~ねばならない」「~すべき」からの開放でもある
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