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女は子をなすことができる。
体内で創り出せるものということでは「子ども」も「糞便」も等価と言える。
精神分析的には「糞便」は母への贈り物との意味をもつ。
母のおっぱいが形を換えたものだから。
母の無意識は産む子どもの性別までコントロールできる。
女が子どもを妊娠する理由にはいくつかの要因がある。
「私は母からどのような眼差しで見られたのだろうか?」
つまり
「母に愛された、必要とされた存在かどうか?」を知りたいと思ったとき、子どもを欲しくなる。
その人は自分と同性の女の子を産む。
なぜなら、自分がわが子を初めて見たときの眼差しが
母が自分を見た眼差しに重なるからだ。
わが子を「可愛い」と感じたなら、母も自分を「可愛い」と感じてくれたに違いないと思える。
逆に「可愛い」と思えなかったなら、そのような眼差しだったと感じることだろう。
このように女は子をなすことで確かめられる。
もし、母が自分をどのような眼差しで見たか、特に憎しみの眼差しだと確信している人は
子をなすことをしないだろう。
なぜなら、確かめなくても自明だからだ。
男性を自分に繋ぎ止めるために妊娠する場合もある。
複数の女性と競合している場合、
自分から心が離れていってしまうかもしれないと不安になった場合、
自分のことを愛してくれているのかを確かめたくなったとき
そんな時「妊娠」することで相手の反応を確かめる。
自分を必要としてくれる存在を欲しいと思っている人。
この場合は、子どもが2歳を過ぎて言葉を覚え「イヤ」と言い始めたら
次の子を妊娠する。
このように意識的にも、無意識的にも
女は「子をなすこと」を利用する場合がある。
母となった人は「自分はどうして子どもを欲しいと思ったのだろうか?」
と自問してみてはどうだろうか?
もちろん、そのことの是非を云々するつもりはない。
臨床上、こういったことが見えてくる場合があるから書いたまでである。
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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「疾病利得」という言葉がある。
病気をすることで、その人にとって何らかの利得があることをいう。 まるで、サスペンスのセリフと同じだ。 「病気やけがをすることで、その人にとってどんな得があるのか?」 このように問いかけてみると、その人の欲望が見えてくる。 例えば、 学校や習い事に行きたくない子どもが一番使う手は 「お腹が痛い、頭が痛い」という言葉だ。 親はびっくりして病院へ連れて行くが、ドコも悪くないと言われる。 あるいは、 「サボりたいんだな」と見抜く親は聞く耳を持たない。 この手が通用しないと感じると、次の手段へと出る。 本当に病気になったtり、怪我をして入院する。 ここまでくると 堂々と学校や職場、塾、習い事を休めるし注目される。 周りの同情やいたわり、温かいまなざしをもらえる。 あるいは 一番独占したいと思っている人を独占できる。 もちろん、意識している場合よりも無意識的な場合のほうが多い。 本人もまさか、自分が好き好んで痛い思いなどするはずはないと思っている。 このように 人は自らの身体を傷つけ、痛い思いをしてまでも 手に入れたいものを手に入れるもののようである。 なお、休みたい期間に応じた程度の病気やけがをする。 つまり、長く休みたいければそれだけ重症となるだろうし、 短期間で目的を果たすならば軽症となるだろう。 疾病利得だと感じてソレを指摘しても無意味である。
手に入れるまではどんな方法を使っても求め続けるものだから。 何よりも、求めているものを与えることでしか埋まらない。 気付いたなら満足するまで与え続けよう! このように、時として病気や怪我も言語と同等のメッセージである。 否、言語化できない、しても聞いてもらえないから、疾病利得を使うのである。
何を求めているか知りたい方は下記へ
シニフィアン研究所のHPはこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/ |
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引きこもって外に出ない、出たくないと思う
そのように言語化できずに引きこもってしまう
そのきっかけとなる理由は様々だが
根本的には何かをしたいという欲望が無いと言える
欲望がないのは、欠如を知らないからでもある
自分には何が欠如しているのか?
足りないものは何か?
これがはっきり自覚できないと「欲しい」が出てこない
この欲望を知る、持つ以前の問題として
しっかり自分だけの安心できる空間(巣)を作ることが必要である
その意味において「引き込もり」は自分の「巣作り」だと言えるし
人は必ずその時期を必要とするようだ
「引き込もり」はエネルギーがなくなったとか
自我が脆弱だとか言われたりするが
何よりも「巣作り」の時期だとも言えよう
そのためには
自分だけの部屋を持ち、中から鍵をかけて誰も入れない空間を作る必要がある
この個室が作れない場合は
押入れやダンボールや部屋の隅っこがその代わりになる
家の中にその空間が作れないときは外に求める
誰も知らない自分だけの空間、邪魔されない安心できる場所を見つけ
そこに閉じこもる
たっぷり満足したら必ずそこから巣立つ時がくる
それを周りが邪魔せず暖かく見守れるかどうか?
密度濃くできるかどうかが、巣立つまでの時間を決めるとも言えるだろう
親鳥が巣を作り、安心してヒナを育てるのと似ている
その間親鳥がすることはただ一つ
ひたすら卵を温めて守ること
決してそこを離れることなく温めるだけ
それ以外は何もしない
何もしないことが一番必要な仕事となる
巣作りをし、安心して自分を育てること
この間はただただ何もせず、エネルギーを使わないこと
これが結果的に巣立つときのエネルギーにもつながる
引きこもったなら周囲は決して邪魔をせず、
巣立つ時を温かい眼差しで見守ること
決して口を出さないこと
つまり、巣立ちを求めないこと
この体験を持てなかったなら個の確立が難しかったり
自分と他者の区別がつかなかったり
はては他者が侵入してくるイメージを持ったりする可能性が出てくる
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それは「自己愛」を高めることから。
自己愛には三つの要素がある。
「自己肯定感」「自己価値観」「自信」
自己肯定感は自分で自分を肯定できる(良しと思える)こと。
自己価値観は自分は生きるに値する存在であると思えること。
自信は自分を信じられること。
では、自己愛はどのようにして作られるのか?
それは対象恒常性と基本的信頼感から。
対象恒常性は、常に側にいて、まなざしとスキンシップを要求に応じて与えてくれるただ一人の人が居ることから
人の精神内界に作られる(=内在化)。
ただ側にいるだけではなく、要求に敏速に的確に行動で応えられることがその条件となる。
基本的信頼感は対象恒常性を基礎に「どんな私でも受け入れてくれる(=オールOK)体験」によって培われる。
つまり、承認と賞賛から作り上げられる。
ここでいう承認とは要求を聞き入れることを意味する。
要求に対する是非は持ち込まないことが前提となる。
その要求は正しいか、間違っているかの判断は持ち込まないこと。
要求の内容と、要求するその人自体とは別だと認識する視点が大切。
もし、その要求が良くない内容だとしても、要求するその人が悪いとは限らないということであり、
言い換えれば、要求の内容に対しては反対だが、あなたが嫌いという訳ではないということである。
基本的にその要求の是非は要求する本人が一番知っているものである。
では、なぜ悪いと知っているのに要求するのか?
それは、相手を試していると言える。
つまり「これでも私を受け入れてくれる?愛してくれる?見捨てない?」
これを受け入れられたなら、それからは不必要な要求はしなくなる。
なぜなら、もう試さなくても私を見捨てない、肯定してくれるという基本的信頼感が持てたから。
そして、褒めるに価する言動に対しては適切な賞賛を与えること。
過剰な賞賛、あるいは交換条件付きな賞賛はしないこと。
たとえば
頑張ったからこれを買ってあげるとか、言う事聞いてあげるなどなど。
よく頑張ったね!良かったね!など共に喜び、分かち合い賞賛すること。
これを共感するという。
決して上から目線での物言いはしないこと。
これらの対象恒常性と基本的信頼感を持てたなら、人はより自己愛を高められるであろう。
人は、何よりも自己愛を傷つけられることを一番恐れ、
ひいては自己肯定感、自己価値観や自信がゆらぎ、生きるエネルギーが枯渇する一因となる。
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子どもは母が世界で一番大好きな愛の対象である。
状況からくる影響により、大嫌いだと語る人もいるかもしれない。
それでも、自分が存在することを選択してくれた人であることは疑う余地のないことである。
子どもには自分の存在を云々することは不可能であり、
主に母なる人の判断に委ねられているからだ。
それはとまれ、
子どもはいつも母を見ている。
母だけを見ているといっても過言ではないと思う。
母の喜ぶ顔が見たいと思う。
母の言う通りの良い子になろうとする。
年齢が小さければ小さいほど世話をしてもらう必要性が高いから、母の言う事を聞く。
それでないと、家は居心地の良いものとならないからだ。
母の方も自分の言う事をよく聞く子にしたいと思う。
しつけという名の下に、この子の仕合せのためだと信じて。
しかし、それは母の都合だ。
母が自分のしたいことが邪魔されないように、自分が楽なように子どもを操る。
時には、自分が果たし得なかった夢を、我が子に背負わせてしまう。
また、家業の跡取りとしての役目を押し付けるかもしれない。
世間から素晴らしい親だとの評価を得たいためかもしれない。
それらの是非をいうのではない。
母が我が子に「こうなってほしい」「ああなってほしい」と願うことは大切なことである。
原初、子どもは母に欲望される存在であることが何よりも必須である。
しかし、
母が我が子に求めるものは母の想いであること。
それは言い換えれば、子どもを母の欲望の対象にしてしまうことである。
子どもを母の欲望の対象にしてしまうとは、母に呑み込まれて自立できないということと等価である。
自立した人となるためには、どうしても母への反抗が必須となる。
母への反抗期がない子は後に、自立することに問題が生じる可能性が大きい。
ゆえに、母の良い子になってはいけないというのである。
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