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【2025/07/14 03:42 】 |
共感すること
共感して欲しいと叫んでいる
「共感する」とはどういうこと?

共感する=共に感じること
書いて字の如し

共に感じるってどうすること?
側にいて、同じものを見て、同じ感覚を感じ、味わい、時空を共有すること
「う^^ん」何となく分かる気がするけど、
実際にどうすること?

案外、分かっているようで、分からないようだ

その人の側にいて、そこに留まること、心身ともに動かないこと
よけいに分からなくなった?

具体的に
同じ言葉を反復すること
「今日は寒いね~」と言ったら「ほんと、寒いね~」と答えること
「これ美味しいね」と言ったら「ホント、美味しいね」と言うこと
「お花きれいね」と言ったら??
そう「このお花きれいね」と言うこと

すごく簡単なこと
この簡単なことが、案外難しいみたいだ

「今日は寒いね~」と言ったら「そんなの当たり前じゃない、冬なんだから」
「これ美味しいね」と言ったら「高かったんだから」
「そんなこと言ってないで早く食べなさい」
「お花きれいね」と言ったら「それより早くしなさい」
と言ってないだろうか?

時空を共有すること
溶け合うこと=融合すること=一体化すること
共感することは、そのものとの距離が0になることに等しい
だから、人は共感してくれると心地よい
だから、人は共感を求める
もっと共感しよう!
もっと共感してもらう体験を持とう!
そうすれば
きっと「一人じゃない」と感じられるから
だから
共感は生きるエネルゲンとなる

共感体験をしたい方はこちらまでどうぞ
シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/
 
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【2012/01/17 21:06 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
自己コントロールができないのは?
自分で自分をコントロールすることを「自律」という
ところが、
「分かっているけど止められない」
「どこで止めていいのか分からない」
という人がいる

要因は様々考えられる
その中で
「止めてもらった体験がない」場合が考えられる
それはどういうことかと言うと
「受け止めてもらった体験」
抱きとめてもらった体験」
つまり
「そうか よしよし」と、誰かに体を抱き止めてもらったことがあったり、
じっくり聞いてもらって
「嬉しい」「安心した」と、精神的に受け止めてもらった体験のことである

これらの体験があった人は
皮膚を通し、精神的にもその触れている感触を実感するだろう
その「触れてくれている」と感じる部分が
限界=境界
となる
この限界=境界が自と他を分ける線や面ともなる
つまり
「ここまで」と」区切る=そこで止める
となるのだと思う

簡単に言うと
「止めてもらった体験」が自ら「止める」=自律に繋がる
ということになる

ゆえに
分かっていても止められない人
どこで止めてよいか分からない人は
止めてもらった体験がない
と言えるだろう

自分をコントロールしたいと思ったなら
誰かに「受け止めでもらう体験」をすること
そうすれば、
きっと自ら必要なときに止めることができるようになるだろう

止めたいけど止められない方は
シニフィアン研究所までお問い合わせください
スマートフォンでも見られます
http://signifiant-lab.com/
【2012/01/15 00:04 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
教育はムダの集積
今や教育は数値化され、どのようにすれば効率よく反映されるか?
どのような方法を使えば、理想とされる数値近づけるか?
これらを中心として編成されている
その代表が「偏差値」であろう
遊びも予測され、期待される枠を持つなら
それは「遊び」と言えるだろうか?
遊びは「創造性」を含むものではないだろうか?
創造性は閉じられたものではなく、開かれた際限のないもののはず
創っては壊してゆく、永遠に数値化されることを拒否するものでは?

人間は工業製品とは違う
データや数値だけで評価できないし、一部にしか適用できないはず
ある評価のための数値化も必要だろう
しかし、
その数値は一部であって、全体ではない
数値が高いからといって優秀だとは言い切れないし
優秀な成績ではあっても優秀な人だとは限らない


車のハンドルに「遊び」があるように
文章に「行間」があるように
紙面に「余白」があるように
教育には「ムダ」が必要だろう

ムダは無限の可能性を創造する「目に見えない場」
何があるか
何が起こるか
何が飛び出してくるか
何もないかもしれない

この「不確定なもの」
この「未知なるもの」
この「予測不可能なもの」
これこそ「ムダ」に通じるものではないだろうか?
これこそ教育の根底に流れる地下水脈ではないだろうか?

この「ムダの集積」こそ教育に必須のものであり
今一番忘れかけているものではないだろうか?

シニフィアン研究所のHPはこちら  http://signifiant-lab.com/
【2012/01/09 16:00 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
人は環境が大事
美味しいお漬物は、ぬか床が違う
手間隙かけて、愛情こめて
毎日、手塩にかけてかき回し世話をする
漬ける材料も大切だが
同じ材料でも、ぬか床によって、まったく味が違う

漬物のことを書いていると
まるで、人間を育てるのと同じだと思えてくる

人を育てるときも
手間隙かけて、愛情こめて
毎日、手塩にかけて世話をする

人間にとって「ぬか床」とは何だろう?
それは「環境」だと言える
環境によって、人は変わってゆく
環境を整えることが大切になる

最初期の環境は、何と言っても両親
中でも「母」その人だろう
母の想いが子どもの環境となる
母が適切な愛情と世話をするなら
子どもは「愛された、価値ある存在」となるだろう
母が悪意と放任、無視の環境で育てたなら
子どもは「嫌われ、邪魔者で生きる価値のない存在」と思い込むだろう

人を愛し、愛を与える人間となるには
愛され、必要とされた環境(体験)が必須だと言える

『人は体験したことしかできない』

優しい人は、優しくされた環境
愛ある人は、愛された環境
尊重できる人は、尊重された環境
それらの環境の中で体験したから、自然に醸し出されるものである
まさしく「身に付いたもの」「滲み出てくるもの」

愛ある環境を整えましょう
愛を与えましょう
愛を体験しましょう
愛は語るものではなく、にじみ出てくるもの

もし、愛を知らないと言うならば
愛を求めましょう
そうすれば、必ずつかむことでしょう!

シニフィアン研究所のHPへどうぞ  http://signifiant-lab.com/
【2012/01/08 14:44 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
父の威厳―「父」のポストが父を作る
子どもができて「父」と呼ばれる
これはどういうことを意味しているのだろうか?
父になったからと言って、その人が別人になったわけではない
父と言う象徴的役目が増えたのだ

父の役目とは?
「父」という象徴的なポストに就いたということ
つまり
世帯主、家長であるということ=家族を代表するポスト
会社で言えば、社長というポストと同じ
家族を取りまとめ、代表する役目を負うということになる
そこで求められることは
主導権=中心になって物事を推進する力
自律性=自分をコントロールする力
統率力=家族を一つにまとめる力
指導力=家族を目標に向かって導く力

これらは、その「父」というポストに求められる能力であり
そのポストに就いたなら、その責務を引き受ける覚悟と努力が必要となる

これらは、何を意味しているのだろうか?

それは、これらの能力があるから父として尊重し、
これらの能力がないから、父として尊敬しないのではない
「父」というポストに対して尊重するということを意味する

例えば
「飲んだくれで、働きもせず、暴れてどうしようもないから尊重しない」
のではなく
「飲んだくれで、働きもせず、暴れてどうしようもないけれど、父として尊重する」
ことが大切なのである

「父である」ことと「父の性格、態度、言動」とは別である
この弁別(区別)ができた時
その人は「象徴性」を持ち、
そこには「父の威厳」が存在しいると言えるだろう
そして、その態度が
父を、父としての役目と責務を引き受ける「覚悟」と「自覚」を持たせることだろう
「父と言うポスト」が
男性を父に育て上げてゆくのである

父になること、父であることに迷居、悩みがある方は
シニフィアン研究所までご相談ください
http://signifiant-lab.com/
【2012/01/05 21:10 】 | 子育て | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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