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人は鏡の世界に閉じ込められている
その世界からいかに脱するか?
ナルシシズムの語源とも言われる「ナルキッソスの神話」のように
水面に映った自分の姿に魅了され、そこから離れることができず
やがて衰弱し死んでゆく
鏡の中の姿は虚像であり、自分と言う実像はこちら側にある
これは自明のことだと言うかも知れない
では
テレビや雑誌などの宣伝に乗せられて衝動買いするのは?
「〇〇すればあなたも△△のようになれる」
の言葉に、映像に自分の姿を重ねて見ていないだろうか?
Aさんがブランド物を買った―私も欲しいと無理をして買う
Bさんが家を新築した―羨ましいと思うと同時に嫉妬する
数えあげればきりがない
他者という名の鏡に映った自分の姿を見ている
まるでそれが自分であるかのように錯覚している
同じ服装や髪型をすれば、その人になったかのようだ
セレブご用達とのキャッチコピーに振り回される
自分が実像で鏡の像は虚像のはずだが
いつの間にか虚像に振り回されてしまっていることにも気付かなくなっている
このようにして鏡の世界に閉じ込められた夢見る幻想世界の住人となる
他者が望む虚像に同一化し、自分と言う実像を虚像に置き換える
鏡のトリックに騙され、それさえも認識できなくなってしまっている
幻想の世界を映す鏡を破壊せよ!
夢見ることの是非を言っているのではない
ありのままの自分を映す鏡を持ち、しっかり現実を見つめる勇気を持とう
自分が居る世界と鏡の世界の混同から抜け出そう
それが自己認識への第一歩である
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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NOの言えない日本人
なぜ「NO」が言えないのか?
・相手の事を考えて
・断ったら悪いから
・あんなに一所懸命してくれるから
・気を悪くするのではないだろうか
・次に会った時に気まずくなるから
・普段お世話になっているからetc
どんな思いが浮かんだろうか?
NOを言うこと=断る=相手を否定する=自分を否定する
この図式がどこかにあるからではないか?
NOを言うのは、今提示されている事柄に対しての自分の意志表示であって
その人を否定することではない
たとえ、そんなことを言う相手が嫌いだと言ったとしても
その人の全てを否定した訳ではない
部分を全体だと聞いてしまうと「NO」がなかなか言えない
たとえば
「嫌だ、嫌いだと言われたからもう二度と口をきいてもらえないかもしれない」
「この間嫌いだと言っていたのに、今仲良くしてるなんて訳分からん」
こんな風に感じてしまう
これは
NOと言ったこと自体(その人の部分)と、その人自身(その人全体)との弁別がないからだ
その人=自分自身
この図式があるから、NOと言うことは自分がNOと言われたと等価となる
つまり
何らかの陽性の思いを持っている相手=自分を投影した姿=鏡の中の自分
好きな相手は自分の理想の姿となる
だから、その人に「NO」と言うとそのまま自分に跳ね返ってくる
相手を否定することは、とりもなおさず自分を否定することと感じてしまう
だから「NO」が言えなくなるのである
これを「自他未分化」と言う
「NO」が言えるのは勇気があるのではなく
自分と他者はまったく別の存在であると認識している=自他分化している
からである
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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絶対親のようにはなりたくない!
窮屈で過干渉で自由のない、こんな家は嫌だ!
早く自立したいと親元を飛び出る
すべてのことに、ことごとく反抗してきた
「やっと自由に、自分の思うとおりに生きられるんだ」
そうして、自分で考え、判断し、生きてきた
決して親のような生き方をしていない、自分の人生を生きていると自負していた
思春期を機に大抵の人は
何らかの親殺し、否定をしてアイデンティティーを確立しようとする
そして、しっかり親(父)を否定し、自分の生き方を規定する
そうすれば、ゆるぎなく個の確立ができ、自分の人生が生きられる
この父の否定をする前に大きな壁がある
それは「母」という巨大な壁
かつては一体であり、肉体的には分離したものの
母子共に干渉し合うのは避けられない
「愛情という名の暴力」ともなりかねない
この母からいかに分離をするか?が大きなテーマとなる
過干渉、もしくは放任となりやすい
どちらにしても「育たない」という意味では等価である
この巨大な壁を打ち砕き、乗り越えようと必死となる
反発し、抵抗し、時には飛び出し、距離をとる
そして、その壁を打ち砕き、乗り越えたつもりになる
しかし、その考え、判断の基準は何だろう?
大なり小なり、母の価値観が基準となっている場合が多い
まさしく「お釈迦様の手の上の孫悟空」
はるか遠くへ来たつもりだったが、結局は大きな手のひらの上を出ることはなかった
まるで
どこまでも伸びる大きなドームのようなゴムの壁だ
少しでも反発や抵抗に疲れ、その力が弱まると、一気に引き戻される
「しまった!!」
と思い、また力の限り遠くへと遠ざかる
しかし、気を緩めるとまた引き戻される
この繰り返しがまるで一所懸命生きているかのような錯覚をもたらす
しかし、ついにエネルギーを使い果たし、疲れ果て、抵抗をやめる
そして、
ゴムの壁はまるで何事もなかったかのように丸いボールに戻っている
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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今のこの辛さ、悲しさ、惨めさは本来の姿ではない
今の私は真実の私ではない
これは現実ではない
本当はもっと楽しくて、嬉しくて、幸せなはずだ
そのために今のこの苦しみがあるんだ
耐えれば耐えるほど、後の喜びは倍増する
だから
今がどんなに辛くても、苦しくても、悲しくても我慢する
これは本当の私の姿ではないのだから!!
「きっといつか、あのシンデレラのように魔法使いのおばあさんが現れて、魔法をかけ、舞踏会へ行き、
王子様が私を捜し出してくれるに違いない。自分から助けてと叫ばなくても、助け出してくれるに違いない」
このように今の辛い、苦しい現実を否認し、ひたすら耐え忍ぶ
これを私は「シンデレラ幻想」と名づけた
特に自力では逃げることも、訴えることもできない環境の中にいる人たち
たとえば、養育されている子どもなど力関係による弱者
虐待されていても、逃げ出すことも、抵抗することもできない人たち
現実否認をし、橋の下幻想やシンデレラ幻想など幻想の世界へ逃避することで
何とか心身を守ろうとする
身体的な虐待の場合は、まだその痕跡が残るために発見されやすい
しかし、言葉や無言の暴力の場合は痕跡が残りにくい
ゆえにその発見とケアが遅れる可能性が高い
明るく、我慢強く、頑張り屋の良い子は危ない!!
ソレ自体が自分でも気付かない「助けて!」との悲痛なメッセージかもしれない
このメッセージを聞きたい方は
シニフィアン研究所のHPこちらまで http://signifiant-lab.com/
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自分の思う通りにならなかったら、誰しも腹が立ったり、悔しい思いをする
何で分かってくれないんだ!
何てわがまま気ままなヤツなんだ!
こんなことなら言うんじゃなかった、するんじゃなかったetc
しかし、よく考えてみると
その種は自分が蒔いている場合が多いのではないだろうか?
ここでいう「自分が種を蒔いている」というのは、
自分の気持ちに素直に従わなかった結果
自分の思う通りにならず、不平不満の気持ちになるということ
つまり、今の自分の不平不満の気持ちは
自分の気持ちに素直に行動しなかった結果であると言いたいのだ
例えば
友達のAさんが「ねえ ちょっと話を聞いて欲しいんだけど」とあなたに言う
あなたは、聞きたくないとしよう
ところが、あなたは自分の気持ちに正直にならず
「今日はそんな気分じゃないなあ、でも友達なんだから聞いてあげないといけないよなあ」
「聞いてあげなかったら、友達じゃないと思われるかもしれないなあ」
「自分が聞いて欲しい時に、聞いて欲しいから仕方ないか」
「もう いつも勝手なんだから!でも、彼女に嫌われたくないよな」
「断る理由がないな」
と考えて、自分のそのときの気持ちに素直に従わなかったとする
Aさんがあなたに話をしてありがとうと言い、あなたも良かったと思えたなら問題はない
あなたが不平不満な気持ちになる場合はどんな時か?
1)長々と話を続けて、アナタの貴重な時間をとられた
2)せっかく聞いてあげたのに、お礼も言わず、ちっとも嬉しそうにしない
3)あなたのアドバイスをちっとも聞かない
4)あなたの聞きたくない内容だった
5)あなたの意見や態度に文句を言った
他にも色々考えられるだろう
あなたとしては不平不満に思って当然だ
しかし、そもそもAさんの話を聞いた結果でもある
だとしたら、最初から彼女の話を聞かなければ今の不平不満もない
そう、「聞きたくない」という自分の気持ちに素直に従っていれば不平不満もないのだ
反論として
「聞いてあげてもいい」と思って聞いても、不平不満の気持ちになるのではないか?
確かに、 あなたの気持ちに関わりなく、1)から5)のような同じ状況になることは十分考えられる
しかし、
状況は同じでも、あなたの受け止め方が違ってくるのではないだろうか?
「Aさんの話を聞こう」と思うということは
その前提として、Aさんを受け入れようという肯定的な気持ちがある
「Aさんの話を聞きたくない」と思うのは
話の内容に関わらず、Aさんを受け入れたくないという否定的な気持ちがある
つまり、肯定的な気持ちで聞く場合と、否定的な気持ちで聞く場合には
同じ内容でも受け止め方が違ってくるのは当然だと言える
これらのことから
今の不平不満の種は自分が蒔いていると言えるというのである
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