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自分を知ることは喜び?それとも苦しみや辛さ?
抑圧してしてしまった(無意識界)「こと」や「もの」はどのようなものか?
それは、その人にとって決して嬉しい事や楽しい事ではないはず
たとえそういうものであったとしても、何らかの事情でそれらを封印しなければならなかったもの
たいていは、辛い、悲しい、苦しい、認めたくない、不安なことのはず
だからこそ抑圧等の防衛を使って意識の世界から放出してしまったもの
それを知ることは
何らかの抵抗に打ち勝つ必要がある
知ることはまずは苦しい、辛い事である
最中にいる時は、それを言語化することはできない
知るということは言語化すること
つまり、知った時点では「もうそこに居ない」ことの証でもある
愕然とする事もあるだろう
辛さに取り込まれて涙することもあるだろう
怒りに打ち震えることもあるだろう
それでも知ったということは、もうそこから出立したことでもある
だからそれは喜びでもあるのだ
それゆえ知りたい欲望は止まらない
自分を知りたい方は
シニフィアン研究所までお気軽にどうぞ http://signifiant-lab.com/
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生きる意味がどこかにあるのではないか?
そう思って探してみても、そんなものはどこにも無い
しかし、
生きる意味はどこにでも転がっている
これでいいのか?
生きるとは?
生きる意味とは?
今、自分は生きていると言えるのだろうか?
どこかに自分の生きる意味があるのではないか?
誰でも一度はこれらの問いかけを持ったことがあるだろう
あるいは、今なお問いかけ続けているかもしれない
生きる意味を見つけて、その道を歩んでいる人もいるだろうし
見出したと思っていたが、一抹の迷いをもっているかもしれない
生きる意味は人それぞれ
客観的に決められるものではない
主観的に決めるものと言えるだろう
つまり
生きる意味は自分で決める
「これが私の生きる意味だ」と!
自分で自分の生きる意味を規定できたら、それがその人の生きる意味
生きるに値する値打ちがあるからするのでもない
他者が認めるからするのでもない
そんな理由など一切関係ない
どこかにあるようでどこにも無く、どこにも無いようでどこにでも転がっているものである
至極簡単!
私が決めたから、そこに私の生きる意味がある
ただそれだけのこと
生きる意味を見だせない方は
Φ シニフィアン研究所までご相談ください http://signifiant-lab.com/
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人は何らかの決意をしたとき、必ずと言ってもいいほどに部屋の整理をする
子どもなら、おもちゃやマンガ、ゲームやそのソフトや遊び道具
机の上や引き出しや本棚など
大人になってくれば、洋服や趣味のものや収集したもの、
カーテンや絨毯や家具など
端的に現れるのは、女性
髪型や洋服の色や長さなどの好みをガラリと換える
時には家自体を住み替えることまでもする
特徴的なのは
中途半端なことはしない
思いっきり、きっぱり、ばっさり、まったく異なるように変容する
それだけ堅い決意をしたとも言えるだろう
逆に、
気持や気分を変えたいから整理する場合はどうか?
それは一時的なものとなる可能性が高い
なぜなら、気持ちの整理ができてこそ換えたくなるものであって
変えたからといって想いや考えが簡単に変えられ、決意できるものではないからである
時と共にまた思い出して再燃する
誰かが自発的に整理し始めたなら、何らかの決意をした可能性が高いと言えるだろう
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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「人は他者を必要としていない」
このように言うと、たぶん反論が出てくるだろう
人は人の中で生きている、だから人間と言うんだ・・・
確かにその通りではある
「自分以外の人」としての他者は多数いるし、また必要でもある
社会と言う名の集団の中で生活しているのだから
それらの他者には「自分を映す鏡としての他者」と「自分を映さない他者」がいる
自分を映す鏡としての他者=自分自身
と言える
だから必然的に他者はいないことになる
では、自分を映さない他者はどうなるか?
それは他者ではなく、風景と同じようなものである
草木や動物などと同じく「ただそこにあるもの、いるもの」
でしかない
何らかの関係を持つ=意味づけることがない限り
それはその人にとっては「いない」もしくは「ない」に等しい
つまり、「ある」「いる」と意味づけたものは自分自身ということになる
つまり、どこにも「他者」はいないことになる
こうして、他者で構成された社会のはずがどこにも他者はいないことになる
人は自分自身しか見出していない
いるのは自己肥大した自分、自己拡大した自分しか見ていない
どこに他者はいるのか?
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雨の日にダンボールの中で哭いている子猫や子犬
それを見て通り過ぎる人
可哀想にとつぶやきながら行く人
立ち止まり、「お前達、捨てられたの?可哀想にね~」と言いながらしばらくの間傘をさしかける人
駆け寄り、抱きしめて泣き出す人
何か食べ物がないかとカバンの中を探す人、食べ物をあげる人
ダンボールごと抱き上げ、家まで連れて帰る人
人の反応はさまざまであろう
その中で「可哀想」と感じ、立ち止まり、その場から離れられない人の場合
その人の心の中では、どのような動きがあるのだろうか?
想像してみる
こんなに可愛いのにどうして捨てたのだろう?
可哀想に、このままでは死んでしまうかもしれない
飼い主が悪いんだ
飼い主がきちんと避妊してやらなかったからだ
捨てるくらいなら飼わなければいいのに
誰か貰ってくれる人をを探してやれば良いのに無責任だ
などなど
犬猫への同情と捨て主への怒りが沸騰していることだろう
これらの犬猫は「雨の降る中、ダンボールの中にいる」という状態
ただそれだけの事象
なのに
この事象に人は何らかの感情や想いを抱く場合が多々ある
このような状態を「同一化」と呼ぶ
犬や猫に対して、まるで自分であるかのように感じ
あるいは、自分がその猫や犬だったらどう感じるだろうと想像してみる
「可哀想」と感じた瞬間に犬猫=自分自身という図式の中にいる
そうすると、捨てられた自分だから足が止まり、放っておけなくなる
抱き締め、家に連れて帰り、世話をしないではいれらなくなる
世話をしてもらいたかったのに、してもらえなかった可哀想な自分を重ねて見ている
だから、自分がして欲しいように世話をする
尻尾でも振り、なついてくればもう可愛くて、可愛くて仕方なくなる
しかし、自分の思うようにならなかったら、逆に憎らしくなり、果ては虐待まで至る可能性もある
これらは動物でありながら、その人の心の中では動物とは考えていない
そこに見いだしているのは自分自身である
見捨てられ、寂しいよ、悲しいよ、抱っこしてよとワンワン泣いているかつての自分であり
捨て主に大対しての怒りは、過去の世話してくれなかった対象への怒りである
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