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【2025/07/06 16:55 】 |
明るいは暗いを内包している

自己紹介をするとき
「明るい性格です」
「楽天家で悩んだことはありません」
などと語る人がいた場合
どんな人だと想像するだろうか?
言葉通りに「明るい人なんだ」「楽天家なんだ」と受け取ることもできる。
 
ここで、「明るい性格」という言語を選択する場合のことを考えてみよう。
・人から「明るいね」と言われることが多く、「私って明るい性格なんだ」という経験値を重ねてきた。
・明るい性格だと思って人との対人関係を築いてきて支障がなかった。
・明るい性格に相応しいとされる自分の言動に対して疑問を抱かなかった。
これらのことから「明るい性格である」と自己規定してきたと考えられる。
 
「明るい」という言語を考えた場合、その反対の「暗い」という言語を思い出さないだろうか?
「明るい」という言語は「暗い」に対して使われることが多い。
明るさが常に一定だった場合、人は「明るい」とも「暗い」とも語らないだろう。
「明るい」と語る場合、それよりも明るくない(=暗い)ものがあることを意味する。
つまり、AよりもBの方が明るい、あるいはAの方がBよりも暗いと表現する。
すなわち、「明るい」は「暗い」を内包しているとも言える。
「明るい」という言語は「暗い」に対して存在することになる。
 
以上から、「明るい性格」だと語る人の心の中では
それに対する「暗い性格」という言語が内包されていると言えないだろうか?
「明るい」を強調すればするほど、「暗い」を抑圧、否認している。
抑圧、否認するものは無意識界へと押しやられ、錯誤行為などによって表面化する。
その観点からいえば、その人の出会う人、ものは「暗い」が多くなるであろうと予測できる。
 
この観点から、
出会う人を見て、自分が気になる部分は自分にも内包されているのでは?
と自分に問いかけてみよう。
そうすれば、何かが見えてくるだろう。
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
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【2011/09/17 09:00 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
介護老人とならないために
長寿大国と言われるようになって久しい。
長寿になったから介護を必要とする人口も増えたのも必然かもしれない。
 
それらの視点からではなく、精神分析の視点から考えてみる。
そうすると、「退行」という文字が浮かんでくる。
「時間的に人の精神は発達すると仮定して、その初期の段階へと戻ること」の意味で考えてみる。
 
例えば、「寝たきり」となった姿は
おむつをあて、寝返りもままならず、お風呂に入れてもらい、食事も介助、
もしくは「胃ろう」というチューブで直接胃に点滴のように流動食をいれてもらうことにもなる。
そして、いつもニコニコしていて、
介助や世話をしてくれる人たちから
さかんに「○○ちゃん」と呼ばれ、「可愛いね」と連発される。
 
実年齢と体格の差を考慮に入れずに見ると
まさしく乳幼児と同じ世話をしてもらっていると映る。
 
人生の大半を、社会の一員として頑張って生き、ある時を境に退行してゆく
そのきっかけは人さまざまだろう
その姿を見ていて
その人の人生の中で一番楽しかった、心満たされたと刻印された地点まで遡って行くように思える。
また、その人が一番求めていて得られなかった地点の穴を埋めようとしているかのようにも見える。
 
たいていは乳幼児期まで遡るようにも思う。
時には母の胎内まで回帰したようにも思える状況にも出くわした。
「胃ろう」なるものを見たときに感じたものだ。
へそのすぐ近くにチューブが付けられている姿は
まさしく「へその緒」だと、私には見えた。
 
これらのことから考えてみると
将来介護を必要とならないないためには、退行しないこと
退行しないためには、「満足体験」をしていること
このように言えるだろう。
 
 
ご意見、お問い合わせはシニフィアン研究所までどうぞ  http://signifiant-lab.com/
 
【2011/09/14 13:13 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
人は成長してゆく存在

人は精神的にどこまで成長するのか?
そもそも成長というコト自体あるのだろうか?
何をもって成長というのだろうか?
こんな問いかけを持った
発達論的観点から口唇期欠損だとか肛門期の関係障害、エディプス期の葛藤
あるいは、自己愛パーソナリティーなどなど様々な表現がある
それらすべて言語によって後に再構成されたものという考え方もある
 
ただ日々の臨床の中で感じることは
成長という一つの概念によって説明可能な事象が多々あるということ
 
人は通常、日常生活の中で言語を使って意思疎通し、特に問題もないかのように過ごしている
そんな中、時としてその日常言語を、まるで初めて理解したかのように気づく瞬間がある
その時、
今まで使っていた言語は一体自分にとってなんだったのだろうか?と感じる
知っている、理解しているはずの言語が
新鮮な言語として響く瞬間、違った世界が垣間開くかのようだ
そして、
「どうして今まで気がつかなかったのだろう」
「それを引き寄せたのは私です」
「それを選んだのはこの私自身です」と語る
そう語った時から
その人は、自らその事態を書き換え、行動化してゆく
 
その姿の中に「成長」という言語を観た気がした
人は身体的年齢に関係なく成長してゆく存在であると痛感した瞬間でもあった
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
【2011/09/13 07:49 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
生きることが虚しくなる-生の貧困
泣いていたら・・・「何をメソメソしてるんだ、泣くな!」
笑っていたら・・・「ヘラヘラして!調子に乗るな!今に足元を掬われるぞ!」
怒っていたら・・・「腹を立てるな、人に嫌われるぞ!人間我慢が大事だ、忍耐だ!」
ノンビリごろごろしていたら・・・「ぐうたらみたいにするな!ダラダラするな、そんな暇があるなら手伝え!」
行きたくない、やりたくないと言ったら・・・「わがまま気ままは許さん!」
                         「自分勝手を言ってると社会では生きられんぞ!」
                         「誰のおかげで大きくなったと思ってるんだ!」
新しい何かを買ったら・・・「無駄遣いをするな!金は大事にしろ、使うな!」
 
情を出すことを禁じられ、味わうこともままならず、のんびり寛ぐことも許されない。
自分は一体なんのために生きているのだろう?
この世は生きる意味などあるのか?
何が嬉しくて人は生きているのだろう?
こんな考えが次から次へと浮かんできては消える
生きることそのものが虚しくなる
これを生の貧困という
 
いっそ死んでしまおうかと思う
だけど、それさえも「世間体が悪い、笑われる」と許されない
まさしく 飼い殺し とはこのことだと痛感する
 
こんな叫びを聴くことは決して稀ではない
人は叫んでいる
心の底から、声にならない、声にできない叫びをあげている
 
この声にならない叫びはいったいどこからやってくるのだろう?
だれがこの叫びを聞いてくれるのか?
聞いてほしい
聞いて欲しいと叫び続けている
内容は違ってもクライアントは常に叫んでいる
インテグレーターは、日々こクライアントの叫びを聴き、
クライアントがどのように叫んでいるのかを言語化している 
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら  http://signifiant-lab.com/
【2011/09/07 09:14 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
事後性によって書き換えている

人は自己愛が傷つくことを一番恐れる。
それは自分の存在を危うくするからだ。
そのためには人は我が生命を危機に陥れても守ろうとするようだ。
特に自分の精神的な基盤だと感じている人(母なる存在)に対してはその傾向がより強い。
当然と言えば当然だろう。
 
すべての人は母から生まれる。
がゆえに、精神的基盤の最初は母だと言える。
その母は自分を大切に思ってくれていると信じたい気持ちはだれにでもあるだろう。
 
物心つかない幼少期の記憶はその可能性が高い。
乳幼児期はあらゆる刺激を五感を通して体に記憶する。
後に言語を習得し、同じような体験や経験を通してそれを言語化する。
その時に可能なかぎり自分の自己愛を傷つけないように書き換える。
自分を虐待する母であっても、見捨てた母であったとしても
例えば
「放ったらかし」を「自由にさせてもらった」
「つねる」を「強く抱き抱きしめてくれた」
「怒る」を「自分に関心を持ってくれていた」
あるいは
「きっと何か理由があったに違いない」
「母だって本当はそんなコトしたくなかったに違いない」
そう思うことによって防衛している。
また
「母は私を見捨てたんだ」と叫びつつ
どこかで「そうじゃないよ」と誰かに言って欲しいと切望している。
 
これらの葛藤は非常にエネルギーを消費する。
ゆえに、人は自分に都合の良い様に書き換える。
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
【2011/09/04 13:50 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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