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【2025/07/07 02:16 】 |
精神は生きるために死んでいる
人は二つの時を生きている。
「身体の時」と「精神の時」
「身体の時」は不可逆的に時間軸に沿って変化している。
一方「精神の時」は無時間性で時空を超えている。
可逆的にいつの時代にもどこの世界にも瞬時に飛んでいける。
まるで、ドラえもんのどこでもドアさながらである。
この「精神の時」を考えてみたい。
 
精神の時を生きているとは言語活動によって生きている=シニフィアンの運動をしている
つまり、人は何らかのせきたてとも呼べる動因(言語)により
何らかの対象(言語)に向かって突き動かされている。
それが何なのかに対して人は無知である。
ここから
「私は一体何がしたいのだろうか?」
「何のために生きているのだろうか?」
との問いかけが生じてくる。
 
例えば、何らかの目標(言語)に達したとき人は満足を得る。
それは「精神の死」と呼べる。
美味しい物を食べたいと欲し、それを食べられたなら「満足」という小さな死を味わっている。
そこから動くためには(=生きる)また何らかの対象(言語)を打ち立てなくてはならない。
それがないと人は動こうとしない。否、動けないのだ。
この何らかの対象を立てる=言語化する
つまり、言語によって人は動く。
「お腹がいっぱいになった、さあ次は○○しよう」のように。
日常の中でこのような小さな死と生を繰り返している。
逆説的に言えば「人は生きるために日々死んでいる」
「眠れば死、目覚めれば生」なども同じ意だろう。
 
悲願などと言われ、ある目標を設定し、それを達成したとき
その人はしばらくは動けないだろう。
それは感動の嵐と満足を味わっているからだ。
満足してしまったら人はそこから動こうとしない。
その時その人の精神は死んでいると言えるだろう。
その精神の死から生還するためには次の目標を打ち立てる(=言語化する)必要がある。
それができたなら、またそれに向かって生きはじめるだろう。
 
 
Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
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【2011/09/03 17:55 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
決意と決断ー迷いを断ち切る
人はどうして迷うのか?
それは自己決定できないからである。
迷うというのは選択肢が複数あって、その中から一つを選択、決定できないことから生じる。
では、なぜ一つを選択、決定できないのか?
その前提として、何かを選択して決定しなければならない事象がある。
その事象はその人にとって、できることなら向き合いたくない事象であったり、逃げたい事象である場合が多い。
なぜなら、向き合える事象なら選択し、決定できるはずだから。
次に、たいていは選択したらどうなるか?を考える。
この時共通していることは
まず、自分よりも相手や周りのことを考えてしまう、
自分にとって不都合なことを考えてしまう傾向にある。
例えば選択肢がAとBがある場合
「もしAを選択したら人はどう思うだろうか?」
「Bを選択したら立場が悪くならないだろうか?」と考える。
よって、Aを選択してもBを選択しても自分にとって不都合なことばかりだと思ってしまう。
その結果
Aも不安だしBも不安だ、かといって決めないわけにはいかないし、どうしよう、、、、、
と決められない。
あるいは、同じするなら完璧にしたいと考えてしまい、できるだろうかと不安になる。
このようにして迷いが迷いを増幅し、その中からなかなか出られないことになる。
では、この迷いから出るにはどうしたら良いか?
簡単である。
まず、色々考える前に決めるんだと決意すること。(先送りすることも選択肢の一つ)
そして、どれを選択するかの基準は
できる方よりも、好きな方を選択すること
立場や周りからの期待や状況を最優先しないこと。
まず、自分の正直な気持ち(したいかしたくないか、好きか嫌いか)を優先する。
そして、それを実現するためにはどうしたらよいかを考え、その方法を探す。
ここまで来れば、もう迷いからはほとんど脱している。
何よりも一番大切なことは「とにかく決めると決意すること
それが迷いから脱せる糸口となる。
決意しても揺らぐこともあるかもしれないが、その時は
決めると決意したのだから!と決意した自分に立ち返ることで何度でも決意を新たにすることである。

お問い合わせは シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/
【2011/09/01 13:40 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
人は皆「わがまま」で「怠け者」で「スケベー」だ

我が心の中を覗いたなら
きっと「わがまま」で「なまけ者」で「スケベー」だと思う
 
何事も、努力などせずとも自分の思うとおりになる方が良いし
できることなら何もしたくないし
同性の友達もいいけど、やっぱり異性が良い
 
自分の好きな所へ行き
自分の好きな人とだけ一緒に居て
自分の好きなことだけをして
自分の好きなことを言える
 
何もしなくても美味しいものが食べられ
何もしなくての好きな服装が着られ
何もしなくても好きな車に乗ってどこへでも行ける
何もしなくても生涯困らない
もし困ったとしても、必ず誰かが助けてくれる
 
そんな風に生きられたらどんなに良いだろう!!
 
これらのもう一人の自分とでも言えるものを
「それも私です」
と素直に認められたら
きっと、今よりももっと気楽に愉快に生きられるに違いない
でも、周りはそれを認めてくれない
それは何よりも怖い! 
 
認められない、認めることに抵抗するところから
悩み・苦しみ・迷いが生まれてくる
それらを認めることに抵抗しているのが人間
「~すべき」「~ねばならない」にがんじがらめになっている
 
誰も言わなくても、心の中から聞こえてくる声がある
そんな声なんか「クソくらえだ!」
と投げ捨ててしまえばいい
そうすれば、その時から何かが変わって見えるだろう
 
先日、あるドラマで主人公が言っていた。
「そんなに重いのなら捨ててしまえばいい。
でも、どうしても捨てられないものならば、文句を言わず粛々と黙って守り続ければよい」(意訳)
 
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
【2011/08/30 14:11 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
人は皆「わがまま」で「怠け者」で「スケベー」だ

我が心の中を覗いたなら
きっと「わがまま」で「なまけ者」で「スケベー」だと思う
 
何事も、努力などせずとも自分の思うとおりになる方が良いし
できることなら何もしたくないし
同性の友達もいいけど、やっぱり異性が良い
 
自分の好きな所へ行き
自分の好きな人とだけ一緒に居て
自分の好きなことだけをして
自分の好きなことを言える
 
何もしなくても美味しいものが食べられ
何もしなくての好きな服装が着られ
何もしなくても好きな車に乗ってどこへでも行ける
何もしなくても生涯困らない
もし困ったとしても、必ず誰かが助けてくれる
 
そんな風に生きられたらどんなに良いだろう!!
 
これらのもう一人の自分とでも言えるものを
「それも私です」
と素直に認められたら
きっと、今よりももっと気楽に愉快に生きられるに違いない
でも、周りはそれを認めてくれない
それは何よりも怖い! 
 
認められない、認めることに抵抗するところから
悩み・苦しみ・迷いが生まれてくる
それらを認めることに抵抗しているのが人間
「~すべき」「~ねばならない」にがんじがらめになっている
 
誰も言わなくても、心の中から聞こえてくる声がある
そんな声なんか「クソくらえだ!」
と投げ捨ててしまえばいい
そうすれば、その時から何かが変わって見えるだろう
 
先日、あるドラマで主人公が言っていた。
「そんなに重いのなら捨ててしまえばいい。
でも、どうしても捨てられないものならば、文句を言わず粛々と黙って守り続ければよい」(意訳)
 
シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
【2011/08/30 14:11 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
人は皆「わがまま」で「怠け者」で「スケベー」だ
 
我が心の中を覗いたなら
きっと「わがまま」で「なまけ者」で「スケベー」だと思う
 
何事も、努力などせずとも自分の思うとおりになる方が良いし
できることなら何もしたくないし
同性の友達もいいけど、やっぱり異性が良い
 
自分の好きな所へ行き
自分の好きな人とだけ一緒に居て
自分の好きなことだけをして
自分の好きなことを言える
 
何もしなくても美味しいものが食べられ
何もしなくての好きな服装が着られ
何もしなくても好きな車に乗ってどこへでも行ける
何もしなくても生涯困らない
もし困ったとしても、必ず誰かが助けてくれる
 
そんな風に生きられたらどんなに良いだろう!!
 
これらのもう一人の自分とでも言えるものを
「それも私です」
と素直に認められたら
きっと、今よりももっと気楽に愉快に生きられるに違いない
でも、周りはそれを認めてくれない
それは何よりも怖い! 
 
認められない、認めることに抵抗するところから
悩み・苦しみ・迷いが生まれてくる
それらを認めることに抵抗しているのが人間
「~すべき」「~ねばならない」にがんじがらめになっている
 
誰も言わなくても、心の中から聞こえてくる声がある
そんな声なんか「クソくらえだ!」
と投げ捨ててしまえばいい
そうすれば、その時から何かが変わって見えるだろう
 
先日、あるドラマで主人公が言っていた。
「そんなに重いのなら捨ててしまえばいい。
でも、どうしても捨てられないものならば、文句を言わず粛々と黙って守り続ければよい」(意訳)
 
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【2011/08/30 14:09 】 | 生き方 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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